にもかかわらず、王はハンク・アーロンのホームラン記録を破り、国民的ヒーローになった。この快挙に、当時の福田赳夫首相が感動し、日本初の国民栄誉賞を設け、王に授与している。このときばかりは、王貞治が「国民」ではないことを、非難する声はあまり聞こえてこなかった。
「世界の王」はいかにして誕生したのか
一方で読売ジャイアンツは、相変わらず王よりも長嶋びいきであることを、露骨に表明し続けた。監督として、長嶋は2回雇われたが、王は1回。ジャイアンツの終身名誉監督になったのも、王ではなく長嶋だ。
王は選手を引退したあと、在日韓国人がオーナーを務めるチームで監督を務めてから、球団取締役会長終身GMの任に就いた。
王貞治がバッターとして成長するまでの話は、ちょっとした語り草だ。
1958年にピッチャーとして読売ジャイアンツに入団してから、ストレートの威力を失ったと判断され、天性の打撃パワーを生かすため、ファーストにコンバートされた。ところが、スイングに深刻な問題があり、長い間調整に苦しむことになる。
プロ入り直後の26打席で、まったくヒットが打てず、最初の3年間は、平凡な成績で終わっていた。
たとえば1961年、ホームランは13本、打率は2割5分3厘。同じ年、35勝をあげた中日ドラゴンズの権藤博投手によれば、
「正直言って、王は簡単にアウトにできる。ストレートがまったく打てないからね。彼の打席でチェンジにできるさ」
フォームを正すために思いついた「片足上げ」
ジャイアンツは、合気道の師範でもある荒川博というバッティング・コーチに、王の欠点を克服させた。ぽっちゃり体形で丸顔の荒川は、毎朝、自分の合気道道場で、王のフォーム改造に着手し、きわめて異例の矯正法を思いついた。
「王の欠点は、踏み出しが早すぎることと、体を開いてしまうことだね」
と荒川コーチ。
狭い場所で、体の中心に意識を集中させるために、一本足打法を思いついた。阪神タイガースの別当薫の打ち方を見ていて、ヒントを得たんだ。彼もバットを振る前のどこかの時点で、片足を上げていた。しかし王に対しては、もっと腿を持ち上げるように指導した。投球を待つ間、フラミンゴみたいに片足で立て、とね。