事件と彼女について書かれたものは多いが、比較的信頼が置けるのは「主婦と生活」1983年3月号に掲載された「連載 悪女の履歴書第3回」の丸川賀世子「苛酷な“現実”にさいなまれつづけた果ての愛人刺殺事件 蛇女優・M」だろう。それによれば、6人きょうだいの5番目の次女。高校卒業後、家業を手伝っていたが、叔母を頼って別府温泉に行ったという。

「ミス温泉」になり「たちまち19歳(※筆者注:20歳の誤り)の彼女は別府の有名人になり、若い男によくもてた。親元を離れている自由はあるし、歓楽街に住む若い身空でMは大いに青春をエンジョイした」(「悪女の履歴書」)。同記事は、男と同棲していたとか、キャバレーのホステスもやっていたといううわさも記載。それから上京するまでの経緯を次のように書いている。

ヤクザに騙され、土地の親分の愛人にさせられ…

「ミス温泉」に浮かれているうちに土地のヤクザに誘惑され、陥穽(かんせい=落とし穴)に落ちた。暴力団員で中国人だった。甘言に乗り、監禁同様の状態で乱暴された。さらに福岡へ連れ出され、中洲のクラブのホステスになった。さらに男の暴力に泣かされた。土地の親分に男との縁を切ってもらったが、今度は親分の愛人にさせられた。

 

 何とか泥沼から抜け出そうとあがき、東京に夢を描いた。「女優になりたい」という野心は「ミス温泉」になったころから抱いていた。

 そこへ東京で映画関係の仕事をしている高校の先輩から実家経由で手紙が届いた。「大映でニューフェースを募集している。あなたなら絶対合格するから応募してみたら」。1955年、22歳のMは、親分が監視役に付けていた若いヤクザをそそのかし、2人で上京した。ヤクザは親分の報復を恐れて姿をくらませたと同記事は言う。

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 大映のテストを受けて合格。俳優座の委託研究生とは、映画会社と提携した劇団で演技の基礎訓練を受けたということだろう。そこに至るまでに彼女は十分世間の荒波をくぐってきたことになる。

多くの日本人が豊かさを求めるようになった時期

 (19)57(昭和32)年の『透明人間と蠅男』でナイトクラブの踊り子に扮して映画デビュー。大映では松竹の泉京子、新東宝の前田通子、日活の筑波久子らに対抗するグラマー女優として売り出した。次いで『冥土の顔役』(1957年)、『新婚七つの楽しみ』、『母』(いずれも1958年)などの現代劇に出演した。(「日本映画俳優全集・女優編」)

 そのころの女優の事情について『キネマの美女 二十世紀ノスタルジア』所収の田中眞澄「『グラマー』曲線美の宣戦布告」という小文はこう書く。