このため、入場料金の値上げで経営のつじつまを合わせてきた業界もついに危機の年を迎えた。大映、日活の製作難航とそれに次ぐ配給提携で、この両社はいままでのような独立配給体制が維持できなくなった」(田中純一郎『日本映画発達史Ⅴ』1976年)。

 Mの事件の約5カ月前には、勝新太郎と並ぶ大スターの市川雷蔵が病死した。「市川雷蔵の死で大映時代劇は終焉を迎えたと言っていい。この後の1年半はその残り火にすぎない」と中川右介『社長たちの映画史』(2023年)。

昭和の映画スター、市川雷蔵 ©文藝春秋

 永田社長はプロ野球「大映」「大毎」のオーナーや、岸信介・元首相の支援者などの“顔”も持っていた。

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「プロデューサーとして第一人者を任じてきたが、一時期の好況の夢が忘れられず、政治、野球などの趣味に没頭して多額の浪費をしたことが反省され、映画製作への企画性の老化などが災いしたうえに、巨額の負債の圧迫から経営のジリ貧を招いた」(『日本映画発達史Ⅴ』)

 労使紛争が長期化。『座頭市』などのシリーズものの不振が赤字に輪をかけた。1970(昭和45)年6月には日活と「ダイニチ映配」を発足させたが、それも1年余りで頓挫。本社ビル売却などで追い詰められたすえ1971(昭和46)年11月、倒産した。Mの事件は「大映崩壊劇」の一部であったともいえる。

大映・永田社長(下段中央)就任式での記念写真 ©文藝春秋

初公判では殺意を否認「死なせてしまう考えはなかった」

 初公判は事件の翌年1970年2月10日、神戸地裁姫路支部で開かれた。2月11日付神戸朝刊は法廷内での横からの写真を添え「M 殺意を否認」の見出しで報じた。

「黒のスラックスにグレーのコート、ゴム草履姿。化粧はしておらず、赤い髪の毛だけがわずかに“元女優”の面影をしのばせた」

 

「殺意については『死なせてしまうという考えは全然なかった。軽い傷を与えてやろうと思った』と答え、弁護側も傷害致死を主張した」

 

「さすがに凶器を見せられた時は大きなショックを受けたのか、言葉が聞き取れないほどで、裁判長から『もう少し大きな声で』と注意される一幕も」

Mは初公判から殺意を否認した(神戸)

 一審判決後の1970年8月2日発行の「週刊明星」は、同誌の記者が大阪拘置所で面会したMの表情を記している。化粧のない土気色の顔で、話しかけてもふと顔を上げてはすぐ深くうなだれた。