勝新太郎、津川雅彦も…有名スターらが減刑を嘆願

「週刊明星」1970年3月1日号は「ヘビ女優・Mの初公判前日に減刑嘆願」という記事を載せている。「彼女に対して、いま大がかりな減刑嘆願運動が起こっている」と記述。きっかけは戦前からの映画経営者で「ラッパ」で知られる大映の永田雅一社長で「周囲の評判も極めてよく、会社に尽くしてくれた功績は大きい」と立ち上がり、京都撮影所で初公判目指して1月中旬から署名活動が始まった。

「公判の前日9日には、同撮影所の俳優部で残りの総まとめの署名が行われた。この日署名したのは勝新太郎、津川雅彦、安田道代(現・大楠道代)、南美川洋子ら有名スターがずらり」と記事にある。それによれば、裁判長に宛てた嘆願書の内容は次のようだった。

勝新太郎 ©文藝春秋

「彼女は真面目で純情な明るい女優だった」

 いままで一緒に仕事をしてきた彼女が殺人事件を起こすまで気持ちが追い込まれていたのを、われわれは誰も知らなかった。せめてわれわれの誰かに打ち明けてほしかったと思うが、そこまで追い詰められた気持ちを考えると、本当に気の毒でならない。彼女はヘビ女優、妖婦というイメージを世間に与えているようだが、それはあくまで役柄のせいで、普段の彼女は何よりも真面目で純情な明るい女優だった。

 

 映画の中での暗いイメージは本人とは全く関係のないことなので、どうか先入観を拭い去ってほしい。平常の彼女を知っているわれわれには、あの事件がいまだに信じられない。それくらい評判もよく、真面目で通っていた女性である。犯した罪は大きいが、いままでの私生活の一面をよく理解し、判決に当たってはできるだけ温かい配慮を……。

 1970年3月9日発行の「週刊サンケイ」では、永田社長が「キミィ、Mは不運な子なんだよ」などと減刑を訴えているが、「ラッパ」らしい宣伝の匂いがしないでもない。

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永田雅一 ©文藝春秋

 ただ、嘆願書はかなり話題になったらしく、「法学セミナー」1976年5月号の法務省矯正研修所教官の文章でも「近年ジャーナリズムに騒がれた著名囚には大映女優Mがいた。在所中も多くの減刑嘆願があり、本人も極めて真面目で、立派に刑を務めあげた人として知られている」と書かれている。

映画界に迫っていた危機

 Mだけでなく、映画界全体にこのころ危機が迫っていた。「全国映画館入場者数が年間10億人を突破した昭和30年代は、いまや遥かな夢と過ぎた。テレビの普及は確実に映画館入場者数に影響し、(昭和)39(1964)年に5億人台を割り、44(1969)年に3億人台を割り、この年(1970年)は2億5000万人を割った。映画界の前途は予測し難い混迷に閉ざされた。