「背番号? 1年目はなしだよ」

「背番号? 1年目はなしだよ」

 さすがに試合で背番号がないのはまずいと思って、彼はこう訊いた。

「空いている番号はないんですか?」

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 そこで、差し出されたユニフォームを見ると「38」の番号が付いていた。プロ野球チームに背番号のない投手がいる? 今ならにわかには信じられないが、その頃の球団運営の大らかさが垣間見える話である。外木場の入団直後の写真を見ると、確かに左胸に大きな「38」が見える。それはそういういきさつから生まれた番号だったのである。

 この初登板の試合。外木場は3回を無失点に抑えた。「プロでもやっていける」。ここから彼のプロ野球人生がはじまったといってもよい。因みに、このシーズンオフに背番号14を付けた弘瀬昌彦が、他球団に移籍してカープを去った。球団からこの番号が空いたことが伝えられ、外木場はすぐにこう言った。

「その番号でお願いします!」

 こうして昭和の大エースの「背番号14」の物語がはじまったのである。

外木場は「背番号なし」の選手としてキャリアを歩み始めた ©AFLO

そして「外木場伝説」は始まった

 とてつもない外木場伝説のはじまりだった。とにかく球が速い。そして真っ向勝負。彼はルーキーイヤーから、いきなり凄いことをやってのける。その契機になったのは、シーズン終盤の試合で先発予定だった大羽進が練習中に脚を痛めたことだった。敗戦処理的な役回りで1軍に同行していた外木場に突然、声がかかった。

「お前、試しに先発で投げてみろ」

 こうしてようやく先発として試されることになった同年10月2日の阪神戦。相手投手は自身が憧れていた、あの球界屈指の剛腕・村山実だった。阪神はその前年(64年)にリーグ優勝を果たした強豪チームだった。その一方で、試し登板のルーキーの初先発でカープの勝ち目はほとんどなかった。しかし、外木場は持ち前の剛球を武器にして、阪神打線をノーヒットノーランで完封(2-0)。のちに語った本人の言葉である。

「こっちは勝敗を全く考えていない。ただ投げさせてもらえるのが嬉しくて……。中継ぎで投げている感覚で、毎回、無我夢中で投げた」

 この試合は、古葉竹識のホームランも飛び出し、点差(2-0)の割にカープの圧勝だった。外木場は9回を投げて96球。出した走者は3回の1四球のみ。3奪三振、7内野ゴロ、17飛球に抑えた。この結果に一番驚いたのは、同じタイプの力投型で球界のエースだった村山だった。

「すごい奴が出てきたなー」

 さらにこのときの勝利インタビューが、ファンや関係者を驚かせた。