これまで何人もの名投手を生み出してきた球団、広島東洋カープ。その中には、長い歴史の中で沢村栄治を含んで2人しか成し遂げていない「3度のノーヒットノーラン」を達成した投手が存在する。

 沢村栄治が成し遂げられなかった完全試合も達成していることから「日本のプロ野球史上、最高の投手」ともいえるその選手の名は、外木場義郎。だが、実は彼はもともと背番号のない選手として入団していたという。『カープ不朽のエース物語』(迫 勝則著、南々社)から一部抜粋し、お届けする。(全3回の2回目/続きを読む)

「沢村賞」の元となった大投手、沢村栄治。その沢村をもしのぐ“史上最高の投手”は、カープにいた ©文藝春秋

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 長谷川が現役を引退したあと、カープのエースは備前(大田垣)喜夫、大石清、池田英俊らに引き継がれた。いずれも弱小チームを支え、それぞれ絵になる優れた投手だった。しかしあとから振り返ってみて“絶対的エース”だったかと問われるならば、少々躊躇するところもある。

 長谷川が1年間の投手コーチを経たあと、カープ監督に就任した1964年のことだった。まだドラフト制度が導入されていなかった時代。カープは九州で活躍していた一人の若い投手に目を付けた。その若者とは、鹿児島県の出水高校を出て九州電気通信局で投げていた外木場義郎(当時20歳)だった。のちに語った外木場の言葉である。

「当時は自由競争の時代。近鉄(現・オリックス)など4球団から誘われた。本当は憧れの村山実さんがいる阪神に行きたかったが、そこからは声がかからなかった。カープには九州出身の選手がたくさんいたし、契約金も結構あったので……」

 こうして九州から少し風変わりな一人の投手がカープに入団した。1964年の秋。外木場の初登板は、阪神との2軍戦だった。その直前まで、彼は背番号のないユニフォームを着て練習していた。いよいよ初登板。彼は当然、背番号のついたユニフォームが必要だと考えた。すると、球団から驚くべき返事が返ってきた。