本書は生湯葉シホさんによる初のエッセイ集だ。不安や緊張でいっぱいだった内面を「食べられなかったもの」と振り返る30篇からなる。記憶や情景が、読者にも程よい距離感で見えてくる言葉で描かれていて、30種類の味がする掌編小説を読んでいるようだった。
生湯葉さんには、さまざまな理由で目の前の料理を食べられない、または食べない時期があったそうだ。高校の修学旅行では、食べ放題のカニを食べそこねる。これはアレルギーが理由のため、誰もが理解しやすいだろう。しかし、生湯葉さんが「食べられない」わけは、このようなわかりやすいものだけに留まらない。
まずタイトルにあるように、しんとした店内で音を立てて殻を割れず、ゆで卵が食べられない。BGMが『壊れかけのRadio』だったことで、家系ラーメンを残してしまう。大切なまりもに「みどりちゃん」「グリーンちゃん」と勝手に名前を付けられたから、すき焼きを食べない。流しそうめんは、それを発明した人に対する複雑な気持ちから、流す係に徹する。好物のメロンでさえ、もらった瞬間に腐らせてしまうだろうと予感し、本当に腐らせてしまう。――だんだん意味がわからなくなってきたのではないだろうか。このよくわからない部分にこそ、本書ならではの切実さは潜む。
食べられなかった大きな理由について、冒頭では「そのころの私にとっては目の前のなにかに口をつけないことが、自分自身を(ときには自分の体裁を)守るために必要だったのだろうと思います」と、触れられている。そこをさらに掘り下げて書かれているのが、「手に届かないものは何であれ美しいと私たちが思っていたころ」と名付けられた1篇だ。
30篇の中で最も短いこの1篇で、私は、自分の中にも常にある緊張感や罪悪感(食べることに関してだけでなく、日常すべてにおいて)がどこから来ているのか、あらためて気づかされた。張り詰めた気持ちは、本文にあるように「若さとか青さ」といった言葉でまとめられがちだ。若い時期を過ぎると、ちょうどよい言葉さえあてがわれなくなりさらに持て余すのだが、そんなわかりやすい「まとめ」からはみ出た気持ちに、この1篇は寄り添う。
そうして全体を通して感じたのは、食べたものはすぐ自分の一部になるが、食べなかったものは時間がたくさん流れ、積み重なる記憶や思考と合わさったのち、自分になるのかもしれないということだった。どれだけの時間がかかるかは、予想できない。でも、あのとき食べなかったあれが、自分のどこにどう表れるのか、それを見るまで元気で居たいとも考えた。
食べなかったものだけでなく、選ばなかったもの、たとえば、見ないふりをした光景、上手に愛せなかった誰か。自分の中だけに残り続けるなにかがある人のことも励ます食エッセイだ。
なまゆばしほ/フリーランスのライターとして、Web・雑誌を中心にエッセイや取材記事を寄稿。読売新聞のWebメディア「大手小町」にてエッセイを連載中。
ささきあい/2016年「ひどい句点」でオール讀物新人賞受賞。著書に『プルースト効果の実験と結果』『料理なんて愛なんて』等。



