「ホームレス」「青木ヶ原樹海」「ゴミ屋敷」「事故物件」など、明るい世間から目を背けられてきたミステリーゾーンに潜入して記事を書き、注目を集めてきたライターの村田らむ氏(52)。

 多くの単行本を執筆する傍ら、現在はYouTubeチャンネル「村田らむのリアル現場主義!!」でも精力的に活動中。そんならむさんに、3回にわたりインタビュー。1本目はイラストレーターから転身して最初に着手したホームレスの取材についてうかがいます。(全3回の1回目/つづきを読む

村田らむさん ©︎文藝春秋

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上野の噴水周り、ぎっしり並んだホームレスのテントに圧倒されて

――ホームレスに興味を持ってライターになられたそうですが。

村田らむ(以下、らむ) ライターとしての始まりは、25歳くらいの頃。当時僕はイラストレーターだったんですが、あるとき母親が東京に遊びに来たんで浅草とか上野に連れていってみたら、当時上野公園には1000人以上のホームレスが住んでたんですね。

 噴水の周りにぎっしりテントがあって。それを見て「わあ、すごい!」「話聞きたいな~」と思ったんですけど、どっちかと言うと僕は人見知りで、自分の中でも話を聞く建前が必要だったんで「あ、ライターになれば話聞けるな」と思って。

――建前として、ライターになった。

らむ そのときデータハウス社という会社で、本の挿絵を描かせてもらっていたんですよ。で「ライターとして記事を書きたい」ってお願いしたら「そんなに原稿料出せないけど、それでいいなら好きなことやって」と言ってもらったので『いやらしい2号』っていうムック本に最初の原稿を書かせてもらいました。まだパソコンも持ってなくて、原稿用紙に書きましたね。

――原稿用紙とパソコン、半々くらいの時代でしょうか。

らむ いやもう世間はパソコンだったし、特にデータハウスなんてハッカーの本も出してる会社だったから(笑)、最初の記事を原稿用紙で書いたら使い古したMacをくれました! そうやって最初に書いたのがホームレスへのインタビューでした。

©︎文藝春秋

鳥山明が好きで、外に出ないお絵描き少年だった

――10代の頃はどういう感じでした? 今のように、社会に対してアクティブなティーンエイジャーだったんですか? 

らむ いいえ。全く違って、インドア派。名古屋でそこそこの進学校に行きつつ、美術系の大学に行きたかったので、高校時代は時間のやりくりが大変でした。卒業するために学校の勉強もがんばり、美術の勉強もして。ちなみに子どもの頃は体が弱くて、外に出ないお絵描き少年でした。

――少年期からサブカル好きでしたか?

らむ 「少年ジャンプ」好きをサブカル好きというならサブカルでしたけど。まあ、何が好きだったかというと、鳥山明が好きだったりして。ねこぢるさんとか中島らもさんの著書を読んだりはしていましたけど、もともと、言うほどサブカルでもなかったですね。サブカルの仕事がライターとして取りやすかったから、そこへ入っていった感じです。