イラストレーターとして上京するも、仕事はやって来ず

――名古屋出身ということですが、東京に来るまではどういうプロセスで?

らむ 九州産業大学っていう美術の学部もある九州の大学へ行って、ストレートで卒業したんですけど、会社に就職せずそのまま東京に来て。イラストを20社くらいに持ち込みをしたんだけどなかなか仕事が来ない。

 やっぱりコネクションがないと、というところもあって、レオ澤鬼さんという師匠に弟子入りして。絵は教わったことがないけど、引っ越しや展示会の手伝いとかしながら、酒の飲み方とか教えてもらって。非常に明るい人でした。

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――いい師匠だったんですね。そしてらむさんのお仕事も決まって?

らむ リクルートの求人誌『FromA』でイラストを描かせてもらうことで1歩目の足がかりができて、他への持ち込みもしやすくなりました。その後、官能小説誌とかスポーツ新聞でイラストを描かせてもらって。それが25歳とか26歳。なんとか年収300万円くらいもらって食べられるようになりました。

――イラストの以外の仕事はしたことがなかったんですか? バイトとか。

らむ ありますよ。パブスナックのバーテン。女の子がつかなかったお客さんの話し相手をするんだけど、個人的にはその経験はすごく役に立ちましたね。自分がどれだけ意味がない存在かを思い知ることができるし、一回潰されるのって結構おすすめです、特にライターになりたい人には。ネタも入ってくるしね。

ゼロから情報を蓄積していきました

――最初にホームレスのかたにインタビューしたときはどんな感じでしたか? 

らむ とにかく、僕は最初、ホームレスについて、全く知らなかったんです。ドヤ街も知らなかったし、本当に漠然と外で暮らしている人くらいのイメージしかなかったので、ひたすら端の人から順に話を聞いていって「なるほど、なるほど」って。

 もともと日雇いの肉体労働者の人が多かった。で、体を壊して、でも生活保護を取るには住所が必要で、住所がないからホームレスなんだ、っていう矛盾した感じなんだと。そうやってゼロから情報を蓄積していきました。

©︎文藝春秋

――その後、いろんな地域のホームレスも取材するようになって。

らむ まず上野の取材でホームレスの記事を2本書いたら、それを見た社長に「1冊の本にしませんか」って声をかけられて。それで上野に行きつつ、四谷、新宿都庁の周りや中央公園、池袋へ行って。今よりずっとホームレスの人口は多くて、今の10倍くらいはいたので、都内のいろんなところに出かけました。

 その過程で関西に西成って街があることも知りました。大阪のライターも、その頃はあんまり西成を取材していなくて、左翼的な労働関係の真面目な本しかなくて、西成を面白く扱った記事がなかったんです。だから「そういう街があるなら僕が行って取材してみよう」と素直に思って大阪や名古屋にも出かけるようになりました。