「教員になる夢はあきらめて…」大学卒業後、一部上場企業に就職

――実家を離れたのは、いつですか?

朝比菜 大学時代です。ずっと一人暮らしはダメって言われてたんですが、20歳のときにやっと親から許可をもらいました。だけど地元を離れてはいなかったので、親のもとで生活している感覚は残っていましたね。

 家賃も「月3万円までは援助するけど、それ以上は自分で稼ぎなさい」と言われたので、仙台にある築48年で家賃が月2万6000円のアパートで暮らしていました。

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現在は沖縄で生活しながら、世界中を旅している(写真=本人提供)

――大学卒業後は、地元の一部上場企業に就職したそうですね。

朝比菜 はい。大手建設会社でした。大学では家庭科の教員免許しか取得できなくて、なんか違うなと感じるようになったので教員になる夢はあきらめて、進路変更したんです。

 ずっと公務員になってほしいと願っていた母の言葉もきっかけにはあります。母の友人で教員をしている人が精神的に大変だったという話を母が聞いたみたいで、「教員はやめた方がいい」と、途中で意見を変えたんです。それなら給料がいい民間企業の方がいいんじゃないかと感じて、進路変更をしました。

「自分の人生このままでいいのかな?」と思うように

――大手建設会社では、どのような仕事をしていたんですか?

朝比菜 営業として、地主さんの家を回っていました。地主さんが持っている土地に「税金対策で新築アパートを建てませんか?」と飛び込み営業するのが主な仕事で、突然ピンポンして押しかけるのでよく怒られていました(笑)。

 でも、仕事自体は楽しかったです。負けず嫌いなので、「同期の中で一番の成果を出してみせる!」と意気込んでいたし、待遇もよかったのでやりがいはありました。

――当時はもう「親の敷いたレールに乗って生きなければ」という意識も薄れて?

朝比菜 いえ、新卒での就職直後も「宮城県から出ちゃダメ」と言われていたし、「定年退職まで同じ会社で働きなさい」とも言われていたんです。親の言うことはきかないといけないって思っていたので、縛られている感覚はずっとありました。

アイドルとして活動していた時期もある(写真=本人提供)

 上司も優しかったし、同期も仲良かったし、営業の仕事も楽しかったけど、途中で違和感を抱き始めたんです。「私、定年までこの仕事を続けて、このまま人生を終えるってことだよね……。本当に自分の人生それでいいのかな?」って。

 でも、親には「定年まで同じ会社で働きなさい」と言われていたので、辞めることはできないよなって感じていて。そこで「働きながら、夢に近づくためにできることはないかな?」と思って力を入れたのが、SNSでした。