人生を「自由」に生きる。誰しも一度は憧れる生活を手に入れたのは、沖縄で三線の路上ライブをしながら、ゲストハウスや車中泊で生活をしたり、日本中、世界中を旅する朝比菜りおなさん(20代)。

 かつて、故郷の宮城県仙台市で一部上場企業に就職。会社員をしながら週末だけ東京でアイドルをする生活を続けたが、23歳で退職して上京した。その後、大手芸能事務所で演技を学ぶが、約半年で退所してフリーランスに。そして、沖縄へ移住という“紆余曲折”の経歴を持つ。

 以前は「親の敷いたレールに乗って生きなければ」という思いに縛られていたという朝比菜さんが、仙台で暮らしていた当時を回想。会社員時代にはアイドルの“副業”を同僚にバラされる、まさかの事件もあったというが……。(全2回の1回目/2回目に続く)

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朝比菜りおなさん(写真=本人提供)

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「安定した仕事についてほしい」と言われ続けた学生時代

――出身は宮城県ですよね。そもそも、どのような家庭環境でした?

朝比菜りおなさん(以下、朝比菜) 実家ではお父さんとお母さん、3つ下の妹と一緒に暮らしていました。親からは学校の成績以外で褒められた記憶がなく、基本的に何でも否定されていましたね。でも、愛情がなかったわけではないんです。たぶん、愛情が深すぎるからこそ心配で、親も過保護になっていたんだと思います。

――自由気ままに生きる今の生活とは、対照的な印象です。

朝比菜 そうかもしれません。ずっと、親の敷いたレールに乗って生きなければと考えていたんです。進学校の高校から国公立の大学に進学して、将来は「地方公務員や国家公務員のような、安定した仕事についてほしい」と言われ続けていました。

 だから私も、公務員になろうとは思っていて、昔から「大勢の人に元気や勇気を与えられる仕事に」とも思っていたので、中学から大学にかけては教員をめざしていました。

新卒で一部上場企業に入社したという(写真=本人提供)

――親御さんも公務員だったんですか?

朝比菜 いえ、お父さんは工場勤務で、お母さんは生命保険の外交員です。将来の進路に厳しかったのは、お母さんでした。お母さんも自分の親から私と同じように「進学校に行け」と言われていて、勉強を頑張っていたけど行けずに苦労したと聞いたことがあるんです。

 娘には苦労させたくないから「公務員になって安定した生活をしてほしい」という気持ちが強かったんだと思います。でも私は結局、高校時代の模試の時点で国公立大学レベルに及んでいなかったので、あきらめて地元の私立大学に進学しました。