なぜ住宅地まで狙われたのか

 武蔵野の地に、突如現れたマンモス軍需工場。戦闘機のエンジンを製造している……ということは、日本軍にとっての心臓部を生み出す工場だったといっていい。そしてそれが、米軍に狙われた理由なのである。

 1944年11月24日の空襲では、111機のうち24機が武蔵製作所の上空に飛来して爆弾の雨を降らした。建物1棟が被害を受け、57人が死亡、75人が負傷している。

 

 そしてそれから、実に合計9度にわたって武蔵野の地は空襲にさらされる。12月3日には60人、1945年2月17日には80人が犠牲になった。

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 また、4月の3度も行われた空襲では高射砲陣地も狙われて、周辺の住宅地も大きな被害を受けたという。

 

 東京大空襲や原爆投下のように、市井の人々を含めて軒並み焼き尽くすような空襲とはやや性質が違い、要となる軍需工場の破壊が目的だ。それでも多くの人の命が失われた。そんな80年前の痕跡が、武蔵野中央公園と遊歩道に残されている。

 

 そして、その後——。

 戦争が終わると、破壊された中島飛行機武蔵製作所の跡地は米軍に接収され、「グリーンパーク」と呼ばれていたという。