戦後に実在した“幻の巨大スタジアム”

 接収解除後は、中島飛行機の元従業員たちが跡地を取得。新時代にふさわしい、平和的で文化的な施設をかつての軍需工場の跡地に作ろうと動き出す。

 そして東海大学創設者の松前重義らを担ぎ上げ、1951年に「武蔵野グリーンパーク野球場」というスタジアムが開場したのである。

 

 グリーンパーク野球場、総工費は実に1億円、ナイター設備も持ち収容人員は7万人という、当時にしては日本一といってもいい巨大なスタジアムだった。1951年はまだ神宮球場の接収が解除されておらず、東京六大学の公式戦なども行われている。

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 そしてメインイベントは職業野球、プロ野球だ。グリーンパークで最初のプロ野球の公式戦は、1951年5月5日。国鉄スワローズが金田正一の完投で名古屋ドラゴンズに勝利している。

 
 

 当時はまだいまのように明確なフランチャイズ制は確立されていない。ただ、どうやら国鉄スワローズの本拠地として、という思惑があったようだ。

 というのも、グリーンパーク建設の過程で、松前重義は国鉄に球団保有を提案している。さらに国鉄も中島飛行機への引き込み線を再利用して、武蔵野競技場線というアクセス路線まで開業させている。

 試合日には東京駅や新宿駅からスタジアムに直結で、というあんばいだ。なかなか先進的な取り組みである。

 

 ところが、実際にはグリーンパークが活躍したのはわずか2年だった。プロ野球の公式戦に至っては、1951年の1年だけ。それもたったの16試合しか行われていない。