高校時代は「1時間練習」で気まずさも…
——高校時代には動けるようになっていたのですか。
柴田 薬物治療のおかげでだいぶよくなっていました。ただ、主治医の先生から「無理しちゃいけない」と通達があったので、練習は1時間限定でしたし、チームメイトとは完全に別メニューでした。
1時間の練習はだいたいキャッチボールとピッチングを30球程度と、ジョギングで終わってしまいます。それが終わると、草むしりやボール拾い、グラウンド整備などでみんなのお手伝いをしていました。
高校野球って、みんなできつい練習をするじゃないですか。それをただ見ているというのはかなり気まずかったです。めちゃめちゃ走っていたり、ものすごい数のバットスイングをしていたりして、死にそうな感じでやっているんですけど、僕はその間もチューブトレーニングやストレッチをしているわけです。同じ辛さも達成感も味わっていないし、声をかけることもできないし、その時間はなんともいえない気持ちでした。
——試合には出られるようになったのですか。
柴田 高1の秋くらいから、「3イニング限定」みたいなかたちで投げる機会をもらえるようになりました。当時は135キロくらい出ていたかな。その後に体調も少しずつよくなっていって、高2の秋くらいには先発ができるほどになりました。
「腸が破れるからヘッドスライディングはするな」
ただ、先ほども言ったようにステロイド摂取の副作用で腹膜が破れやすくなっていたので、「腸が破れるからヘッドスライディングはするな」と主治医の先生から言われていました。
——高校での野球部生活は、テレビの密着取材を受けていたそうですね。
柴田 名電の1年生に難病の選手がいると知ったそうで、3年間ずっと寮やグラウンドに中京テレビのスタッフが密着していました。私生活も含めて常に撮られていたのですが、苦しい場面こそ「いまどんな気持ち?」と聞かれることが多くて、思春期の学生にはきつかったです(笑)。後日談ですが、「甲子園に行かなかったら放送しないつもりだった」と聞いたときには、3年間という期間を費やしてくれたテレビ局の覚悟に驚きました。
——高3夏にはしっかりと甲子園出場を決めましたね。
柴田 はい。病気になってからいちばんの目標が甲子園出場だったので、それが叶った瞬間でした。いままで治療とリハビリに耐えてきてよかった、がんばってきて本当によかったと思って、ぼろぼろと涙が流れました。いま思うと、密着してくれた番組もボツにならずに済んで、テレビ局の方にも少しは貢献できたかもしれませんね(笑)。



