「『ふつうの女たち』がせまられていること」
論争においても、アグネスを擁護することで、議論を一般の女性たちが直面する問題へと向けていこうという動きが現れていた。その口火を切ったのが、社会学者でフェミニズムの論客である上野千鶴子の新聞への寄稿(『朝日新聞』1988年5月16日付朝刊)だ。
上野はそのなかで、《アグネスさんという「特権階級」と「ふつうの女たち」とを同列に論じることはできない》としながらも、《だがアグネスさんが世に示して見せたのは、「働く母親」の背後には子どもがいること、子どもはほっておいては育たないこと、その子どもをみる人がだれもいなければ、連れて歩いてでも面倒をみるほかない、さし迫った必要に「ふつうの女たち」がせまられていることである》と書き、さらに続けて「働く父親」も《いったん父子家庭になれば、彼らもただちに女たちと同じ状況に追いこまれる》として、性別にかかわらず働き続けながら子供を育てるためには社会をどう変えていくかを議論すべきだと示唆した。
上野の発言は、この少し前の1988年2月に、アグネスが参議院の「国民生活に関する調査会」で参考人として意見を求められた際、《生まれた子供をどうするのかというのは、やっぱりその女性だけが考える問題じゃないんだなあと最近は痛感しました。女性運動は女性だけやっては何の意味もないんです。女性運動はむしろ男性運動だと私は思います》と述べたこと(「第112回国会 参議院 国民生活に関する調査会 第2号 昭和63年2月19日」会議録)を敷衍したようにも読める。
浮き彫りになった男性たちの当事者意識の低さ
それにしてもいま、当時の識者たちの発言を読んで気になるのは、働く条件において女性とくらべると圧倒的に優位にあったはずの男性たちの当事者意識の低さだ。メディアで発言する男性たちは、観念的で人を煙に巻くような物言いに終始するか、さもなければ議論に参加するというよりは、むしろ女性たちの論争を面白おかしくあおる立場に回った。
一例をあげれば、コラムニストの中野翠と作家の林真理子があいついでアグネスを批判したとき、ある週刊誌の匿名コラム(文中に「僕たち男に~」とあるので書き手は男性)は、アグネス擁護の立場から「コワイ女が二人でアグネスをいびるの巻」との見出しを掲げた(『朝日ジャーナル』1988年3月25日号)。これに対し林真理子は、《私たちが女の物書きとして、多少意見を言わせてもらったことが、どうして「噛みつく」とか「コワイ女がいびる」になるのであろうか。こういう男社会のからかいが、アグネス問題を、低レベルのものにしているのである》と指摘している(『文藝春秋』1988年5月号)。

