猗窩座が象徴するものは「力への意志」ということになるだろう。前作『無限列車編』で猗窩座は煉獄杏寿郎と力についての対話を交わし、「お前も鬼にならないか?」という有名なセリフを吐き、煉獄はそれを拒否して人間として死んでいく。「強さというものは肉体に対してのみ使う言葉ではない この少年は弱くない 侮辱するな」「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ」猗窩座に対して答える煉獄の言葉は『鬼滅の刃』という作品を象徴する屈指の名場面として語り継がれている。

煉獄杏寿郎 『劇場版鬼滅の刃 無限列車篇』公式サイトより

少年漫画の主人公なのに…炭治郎は戦うことを楽しまない

『鬼滅の刃』という作品が少年漫画として異質なのは、力についての距離感である。「へへへ…おめえどうしようもねえぐらい悪いやつだけどさあ…ウデはすげえから オラわくわくすんだ!」という『ドラゴンボール』の台詞に象徴されるように、多くの少年漫画において力は生命力の象徴である。それは悪いことではなく、戦闘シーンから凄惨な憎悪や暴力の匂いを薄め、代わりにスポーツのように力を競いあう楽しさを持ち込んだ鳥山明ら天才漫画家たちの発明だ。時には昨日の敵が今日の友になり、より大きな新しい敵に立ち向かう。それが「努力・友情・勝利」という有名な少年ジャンプのテーゼである。

 だが、『鬼滅の刃』の主人公・炭治郎にとって戦うことはスポーツではない。物語の冒頭から無惨の圧倒的な暴力によって家族を虐殺され、妹を鬼に変えられるという強烈な被害体験があり、「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という冨岡義勇の名台詞に叱咤され、「力から尊厳を守るための力」を必要悪として獲得していく。作品全編を通じて、炭治郎は戦いを楽しむことがない。戦闘の最中に湧き上がる闘志に思わず不敵に笑ったり、強敵の出現に喜びを感じたりする描写は炭治郎にはないのだ。

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「海賊王に俺はなる」という、『ONE PIECE』のルフィの台詞に象徴される自己実現、夢も炭治郎にはない。確かに炭治郎は強く成長するが、その代償として体には呪いのように痣が浮かび上がり、長くは生きられない命の代償を払う。『もののけ姫』のアシタカが呪いと引き換えに力を手に入れるのにも似て、炭治郎の力は「死への一里塚」なのだ。

 もちろん少年ジャンプの歴史にはさまざまなジャンルの作品があり、近年でも『魔人探偵脳噛ネウロ』『DEATH NOTE』などダークな作風なものも多くあるので、すべてがルフィや悟空のような陽性の主人公であるわけではない。だが、小学校低学年から大人まで、ここまでの国民的規模でヒットした少年漫画作品が、これほど陰鬱で悲壮なトーンで描かれているのは異例だ。

 喜怒哀楽の感情で言えば、メジャーヒットの条件であるはずの「喜・楽」よりも「怒りと哀しみ」に圧倒的に比重を置いた陰惨な悲劇であるにもかかわらず、幼児から大人まで宮崎アニメすら超えるような広い支持を獲得したのが『鬼滅の刃』そして炭治郎という主人公の異質さである。

※以下2段落、少し原作ネタバレ注意※

『無限城編 第一章』よりさらに先、原作の最終巻で珠代が最強の敵・無惨を嘲笑するかのように言ってのける台詞は、まさに鬼殺隊にとって戦いとはなんなのかを鮮やかに説明している。

「お前を殺す為にお前より強くなる必要はない お前を弱くすればいいだけの話 お前が生きる為に手段を選ばないように 私も……私たちもお前を殺す為に手段を選ばない」

『鬼滅の刃』23巻(集英社)

「最強になる」「もっと強い相手と戦う」ことなど炭治郎たちにとってまったく意味がないのである。巨大な力とは暴力であり、それを封じるためにあらゆる力を用いる。しばしば少年漫画には「相手を倒して乗り越えれば殺す必要はない」というヒーローの倫理が描かれるが、鬼殺隊という名前が象徴するように、『鬼滅の刃』において戦いとは徹頭徹尾、相手を抹殺することなのだ。

「手段を選ばない」の極北が『無限城編』の前にテレビアニメで描かれた産屋敷耀哉の自爆攻撃である。あえて鬼舞辻無惨を病床の自分の元に引き寄せ、家族もろとも屋敷を爆薬で吹き飛ばすという衝撃的な戦術は、これまで少年漫画で描かれてきた「仲間を守るためにとっさに命を投げ出す」という自己犠牲とは本質的に違う。完全に計画された自爆テロであり、巻き添え被害すら厭わず敵を抹殺する冷酷な暗殺作戦なのだ。