「選ばれし屈強な戦士たちのみが入ることを許される天国」であるヴァルハラには、女性も子供も老人もいないのである。そこは永遠の少年たちだけの天国なのだ。煉獄杏寿郎を葬り去った猗窩座は、皮肉にも『無限城編 第一章』で炭治郎たちによってそのことを思い出す。自分にかつて狛治(はくじ)という名前があったこと、老いた父親や病弱な恋人、自分を導いてくれた師のこと。働くことができなかった父も、病に伏せる恋雪も、戦い続ける天国ヴァルハラに入ることができない人々である。
あともう一歩で不死の存在になりえた猗窩座は、恋雪のいない世界、戦士だけの天国を拒絶し自ら死んでいく。それはかつて自分の説得を拒否して死んでいった煉獄杏寿郎に、魂の領域で猗窩座が敗れ去る瞬間である。と同時に、『鬼滅の刃』という作品が「戦えない人々」に向ける視線を描いた象徴的なシーンになっている。
岸田元総理の心に響いたのは、どの言葉だったのか
未曽有の大ヒットを記録したから『鬼滅の刃』が他の少年漫画より優れていると主張するつもりはない。尾田栄一郎は2022年、劇場版映画『ONE PIECE FILM RED』にウタという少女を登場させ、永遠の少年のように自由な海賊たちの外部で踏みつけにされる弱者の代弁者、作品へのアンチテーゼを自ら問いかけた。
鳥山明もまた自らが脚本を書いた劇場映画『ドラゴンボール超 スーパーヒーロー』の中で悟空とベジータの決闘という花形のビッグマッチを遠景に押しやり、ピッコロを中心にこれまでと違う感触の物語を描いている。世界が驚き悲しんだ鳥山明の訃報は、『SAND LAND』の劇場映画化などを経て、新たな鳥山明世界が語られ始めた矢先のことだった。『鬼滅の刃』はそうした、少年漫画が次のステップに進む価値観の転換期を予言するように生まれた作品なのかもしれない。
『鬼滅の刃』にも、スポーツ的バトル漫画の文法から踏み出したからこそ、剥き出しの殺し合いを描く暗い面がある。踏みつけられた弱者の痛みを知る鬼殺隊の隊士たちの憎悪と殺意は深く、鬼舞辻無惨に炭治郎が言い放つ「お前は存在してはいけない生き物だ」という言葉がネットで軽々しく意見の合わない他人に引用されるのを見ると背筋が寒くなることもある。
だがその一方で、『鬼滅の刃』がこれまでの少年漫画が描かなかった人々を描き、より広い読者を獲得してきたこともまた事実だ。『鬼滅の刃』の特徴のひとつは、キャラクターの一人一人の背景にある貧困や差別、暴力という社会的要因が念入りに描かれることである。これまでの少年漫画にもそうした背景を持つ物語はあったが、21世紀も4分の1に近づいたこの時代に「悲しみと怒り」の少年漫画に地鳴りするような巨大な国民的共感が寄せられるのは、やはり社会の変化を思わざるをえない。単にストーリーテリングの技巧として貧困や差別を配置しているのではなく、切実な動機で描かれ、切実に読み共感されている物語に思えるのだ。
だから岸田元総理が猗窩座という複雑なキャラクターに思いを寄せる理由は、彼らの政治の下で生きる国民としてもう少し聞きたいところでもある。「淘汰されるのは自然の摂理だ」「病で苦しむ人間は何故いつも謝るのか」元総理の心に響いたのは、どちらの猗窩座の言葉だったのだろうか。

