そして11月21日付夕刊で朝日、毎日、読売は一斉に「古屋、犯行を自供」「埼玉のバラバラ事件解決」を大きく報じた。ただ、問題の「画学生」から古屋にたどり着いた捜査の経緯について、読売は遺留品の画材用紙に書かれた上野のモデル斡旋所と美術クラブからとしているが、ここは同じ読売と朝日の関連記事の方が信憑性がありそうだ。

男は農家の跡取り、農業を嫌った

 それによると10月初め、調布町在住の日活多摩川撮影所員の妻が京王線国領駅で、撮影所の所在地を尋ねられたことから男と知り合いになった。男は所員の妻の2歳の長女の似顔絵を描いたが、それらの際の様子などがその後、新聞に載ったバラバラ事件犯人の人相などによく似ているように思ったので、妻が調布署の駐在所に届けたという。いずれにしろ、絵を描いたことから足がついたのは間違いない。古屋の経歴は朝日にある。

スリ、窃盗の前歴

 

【甲府発】古屋は山梨県塩山市(現甲州市)の農家の長男で、塩山の小学校卒業後、東京へ出て電器会社に勤めていたが、半年ほどたったころ、父親が病気のため実家に呼び戻された。昭和17(1942)年夏、バスの中でスリなど数件の窃盗を犯して甲府署に逮捕され、懲役1年6月の刑で函館の少年刑務所に収容されて終戦直前に出所した。

 

 農業が嫌で、自分の好きな家具作りを郷里でやり、絵も描いていた。だが、材料を買う金は家にせびり、作った家具を売った金は家に入れないので、家の中もうまくいかなかった。家の米や麦を持ち出してヤミで売り、塩山署に食管法違反容疑で捕まったこともある。

 

 その後、再び東京に出たまま、ここ2年ぐらいは年賀状などをよこしたほかは便りもなく、最近では8月16日付の暑中見舞いが埼玉県北足立郡朝霞町(現朝霞市)の映画館・朝霞劇場から来ている。

 農家の跡取りで農業嫌いとは両親も頭を悩ましただろう。同じ紙面で朝日は古屋の母親から話を聞いている。

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「いつかバッサリ殺してやる」

結婚斷(断)った女を恨んでいた

 

【甲府発】古屋がバラバラ事件を自供したという報に実母は次のように語った。

 

 栄雄は(昭和)26(1951)年ごろ、近所の女に夢中になり、「結婚させてくれ」と言ったが、女の素行が悪いので父親から許されず、結局女からも断られたので非常に怒り、「あんな女のせいでオレがこんな男になった。いつかバッサリ殺してやる」と3回ばかり語ったことがあります。その女はその後、埼玉の方に行ったと聞いています。

古屋栄雄(「新潮45」より)

「女の素行が悪いので父親から許されず」というのは、母親の悲しいウソだった。のちに一審で古屋の精神鑑定を担当した新井尚賢・東邦大教授らが「犯罪学雑誌」1960年1月号に載せた「高階村バラバラ事件の精神鑑定例」(文中は匿名)をベースに他の資料の記述を加えて、古屋と彼が惚れた女性の関係をまとめる。