惚れた女との“本当の関係”は…「女性は古屋を恐れた」
1949(昭和24)年ごろ、出生地である塩山市のダンスホールで7歳下の女性(当時18)と知り合い、以来恋い慕って、自宅を訪れるなどして結婚の申し込みをしたが、当時は正業にも就かず、実家で徒食していたため、彼女と家人から色よい返事を得られなかった。そこで1952(昭和27)年7月ごろ、職を求めて上京したが、意のごとくならず、職を転々。のこぎりの目立てとゴム紐の行商にしかありつけなかった。
しかし、女性を諦めきれずに実家を訪ね、両親らに結婚を強く迫り、態度が粗暴だったため、女性は古屋を恐れ、勤めを辞めて実家から埼玉県にいる姉のところへ。埼玉、東京、静岡でホテルなどに勤めながら、古屋から姿を隠した。
そこで古屋は同年8月ごろ、女性の姉宅などを訪れて居所を聞きただしたが、姉らは居場所を明かさず「正業に就いて真面目に働けば、所在も教え、希望も入れる」などと答えた。そこで朝霞町の朝霞劇場に映画の看板描きなどとして雇われ、真面目に働いた。
しかし1年たっても姉らは居場所を打ち明けなかったので、古屋は、女性は自分を嫌って既にほかの男と結婚しており、姉らはそれを知りながら居場所を隠していると邪推。このうえは自力で所在を突き止めようと決意した。1954年8月31日、劇場を飛び出し、ゴム紐の行商と似顔絵描きをしながら女性を捜す旅に出た。
恐るべき執念というか、惚れられたのが災難というか……。近年でもよくあるストーカー犯罪をほうふつとさせる。
「間違い」か「身代わり」か
自供内容と古屋の様子については翌11月22日付埼玉の中見出し「捨てられた女への復讐」の記事が詳しい。
【動機】古屋は越生署の取り調べ室で一切を観念。ワッとばかりに泣き伏して「自分の言うことをまず聞いてもらいたい。新聞に対して写真報道を一切しないでくれ。この場所から一歩も動かないから、検事、裁判所の取り調べはここでやってくれ。持っている写真を山梨の父親のところに送ってくれ。自分の布団など一切の持ち物をできるだけ高く金に替えてズボン1着を買ってくれ」などと哀願。ポツポツ犯行をしゃべりだした。
あれだけの犯行をした動機は、過去ひたむきに愛し続けていた情婦に捨てられ、これを求めて所々を歩いたが、ついに見つからず、恋情が変じて極度に女を恨み、復讐心に燃えた。たまたま9月5日夜、一人手ぶらで帰る被害者を見かけたが、その姿が自分を捨てた情婦にそっくりだった。瞬間、復讐心がむらむらと起こり、情婦の身代わりに殺そうと決意。「女としての価値をなくしてやろう。死んでも動けなくしてやろう」と殺してバラバラにした。