近年、#MeToo運動が世界各地に浸透していくなかで、かつて傑作とされた一本の映画がある議論を呼び始めた。ベルナルド・ベルトルッチが1972年に監督した『ラストタンゴ・イン・パリ』。パリで出会った男女が互いの名も知らぬまま衝動的に関係を持つ様を描いた映画は、過激な性描写により一部で上映禁止処分を受けるなどセンセーションを巻き起こした。
マーロン・ブランドの相手役として19歳の若さで主演したマリア・シュナイダーも一躍有名になるが、彼女自身は、脚本にない性描写の場面を強引に撮影されたせいで心に傷を負い、生涯にわたり本作への出演を悔やむことになる。ひとりの女性の人生を壊した映画と監督たちの暴力を、私たちは今どう受け止めるべきなのか。
映画『タンゴの後で』は、『ラストタンゴ・イン・パリ』での体験がマリア・シュナイダーの人生にどう影響を与えたのかを見つめ、その是非を問いかける。監督は以前ベルトルッチ監督のもとでスタッフとして働いた経験を持つジェシカ・パルー。
映画製作を決意したきっかけは、マリアの従兄弟ヴァネッサ・シュナイダーが2018年に発表した伝記『あなたの名前はマリア・シュナイダー 「悲劇の女優」の素顔』(星加久実訳、早川書房)との出会いだった。本書を原案に、パルー監督は新たな視点と解釈を加え、アナマリア・ヴァルトロメイ、マット・ディロンを主演に映画化。その製作に懸けた思いをうかがった。
マリア・シュナイダーの視点を通して彼女のポートレートを描きたい
――近年、『ラストタンゴ・イン・パリ』撮影時にベルトルッチ監督と俳優マーロン・ブランドがマリア・シュナイダーに対し暴力的な振る舞いをしたという事実が、大きく取り沙汰されるようになりました。それによって、この傑作と呼ばれた映画の裏側で何が起きていたのかが注目されるようになったのですが、『タンゴの後で』を見ると、実はこの問題は近年突然明らかになったのではなく、マリア・シュナイダー自身は1970年代から声をあげていたのに誰もその声を聞こうとしなかったのだ、ということがよくわかります。本作は、この「声を聞こうとしなかった」社会の問題を鋭く突いていますが、監督がこういう視点を獲得していくまでにはどのような過程があったのでしょうか。
ジェシカ・パルー 私は19歳のときに、ベルトルッチ監督の『ドリーマーズ』(2003)の現場にインターンとして参加していました。当然、マリア・シュナイダーについての話も周囲からいろいろと耳に入ってきましたが、当時聞いたのは、今公に知られているのとはまったく別の視点から見た話でした。その後、私はさまざまな現場に参加し、23歳という若さでファースト助監督に昇進しました。当時のフランス映画の撮影現場は年配の男性たちが中心になっていて、監督が俳優やスタッフに対してパワハラめいたことをしたり、権力の濫用をしたりするのを、長年実体験として見聞きしてきました。
そうして年月を重ね、『あなたの名はマリア・シュナイダー』を読んだとき、雷に打たれたような感覚を味わいました。当時子供だったヴァネッサの視点からマリアについて書かれたこの伝記には、『ラストタンゴ・イン・パリ』撮影時に監督たちから受けた仕打ちについて、マリアは50年近く前から事あるごとに訴えていたことが記されていました。ところが現在に至るまで誰も彼女の悲痛な声を聞こうとしなかった。そのことに衝撃を受けたんです。
私がこの映画をつくろうと思い始めた当時、フランスの女性俳優のなかで、映画業界での性加害やハラスメントの問題について声をあげていたのはアデル・エネルほぼひとりだけでした(※2019年、アデル・エネルは10代で出演した映画の監督クリストフ・ルッジアから性的暴行を受けたことを告発。2025年にルッジア氏に有罪判決が下された)。それから私は、女優のデルフィーヌ・セリッグが、マリア・シュナイダーをはじめとする女優たちにインタビューをしたドキュメンタリー(『美しく、黙りなさい』1981年)も見ました。そこでは、女性たちが映画界で経験してきたことを正直に話していました。
ですから、一部ではマリア・シュナイダーの証言に耳を傾け、この問題に取り組もうとした人たちもいたはずなのですが、ほとんどの人は耳を貸そうとせず、まるで何事もなかったかのようにフランス映画は今日まで進行していた。彼女が何度も何度も自分が受けた苦痛を訴えていたにもかかわらず。だからこそ私は、マリア・シュナイダーの視点を通して彼女のポートレートを描きたいと思ったのです。



