ある時間が来ると、兄ちゃんは「じゃ、ぼくはこれで」とスッと姿を消した

 私には、「ぼくには、うまい鈍感さがあるんだね。あんな時は、次つぎ、先を考えてイライラなんかしていたら、とてももたないよ。今日は、療養所の残飯を近くの養豚場の豚たちにやりに行こうとか、向こうの病室の女の子にお化けの話をしようとか、あの看護婦さんをからかってやろうとか、けっこう楽しくやってくもんだよ」と笑っていたけれど、「あれから何十年たっても、大きなチーズを残しているやつがいると、『あいつは、あんなに大切に、一生懸命に、チーズを食べてたんだぞ!』と叫びたくなるね」とも言っていた。

 そんな経験があったから、兄ちゃんは自分の体調管理には気をつけていた。若い頃は浴びるくらいだったというお酒も、チェーンスモーカーだったタバコも、すっかりやめていた。テレビの撮影の後は、仲間で集まって、よく朝方までわいわい騒いだものだけど、どんなに面白いことの最中でも、ある時間が来ると、兄ちゃんは「じゃ、ぼくはこれで」とスッと姿を消した。兄ちゃんは、根っからの都会っ子で、徹底的な個人主義者だから、私は(さすが、クールだなあ)と感心していたけれど、あれは体をいたわっていた面が大きかったのだろう。

渥美清 ©文藝春秋

 そして、それから長い歳月がたった。

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 兄ちゃんは、若い頃に「四重奏」というテレビドラマで共演した杉浦直樹さん、名古屋章さん、そのドラマの作・演出をした福田陽一郎さんと仲が良く、ある頃から、私を含めた五人で、杉浦さんの住んでいる高輪のホテルのお座敷で定期的に集まっていた。

「兄ちゃん、そこから何が見えるの?」「何も見えませんよ…」

 三、四ヶ月に一度くらいのペースで、話題は最近観た芝居や映画の話、他愛のない噂話、旅の話、歴史のこと、日本語のこと、物真似、時にはマジメな世界情勢の話、要するに雑談の会だ。昔なじみばかりのメンバーだから、話が尽きることはなくて、昼の一時くらいから始まって夜の十一時、十二時まで続くのが常だった。いつも杉浦さんが食事を手配してくれて、長く喋り合った日は、三食、そのお座敷で食べたこともあった。

右が杉浦直樹

 この会は、兄ちゃんの発案で始まり、亡くなる前年まで、十年以上続いたと思う。兄ちゃんは、司会よろしく、みんなの話をさばいたり、「お嬢さんは、どうだい?」なんて、話を振ったりしていたけど、時おり、みんなから離れて、窓を開け、窓ぎわの椅子に一人で移ることもあった。「兄ちゃん、そこから何が見えるの?」「何も見えませんよ……ああ、池で、セイ公(杉浦さん)が世話した鯉が泳いでますよ」。