――そうした創意工夫で、高校までで野球をやめようと思っていた佐々木選手が、高3で「大谷超え」の163キロを出して注目され、そして最後の夏の岩手県大会決勝で「投げなかった」ことで賛否両論を巻き起こした。
佐々木選手に対して「過保護」「ひ弱」などの声も
冒頭、「高校の時からメディアに厳しい扱いを受けてきた」という言葉がありましたが、あの時から佐々木選手に対して「過保護」「ひ弱」などの声も出始めた。
「僕自身、あの日は本当に投げるつもりで準備していました。ただ、試合直前に監督に告げられ、スタメンには入っていないことが分かった。僕の中では、最初は他の投手で様子を見て、途中からなのかなと思っていました。相手の花巻東が僕の投球をかなり研究してきていたので、あえて他の投手に先発させて、後半に僕を使うことで勝ちに行くんだなと勝手に理解していました。ただ、初回からどんどん点を取られて6回までで9対1と大差がついてしまった。もちろん僕から監督に、行かせてくださいと早いイニングで直訴することもできたかもしれません。でも、前年の秋の大会で、同じようなシチュエーションの時に、自分に投げさせてほしいと訴えているんです。で、監督がそれを聞き入れてくれたけど、そこで打ち込まれて逆転負けしてしまった。勝っていれば春のセンバツが見えてくるような大事な試合でそれをやっちゃったので、“自分に投げさせてくれとか、思い上がってるな”って思っていたんです。だから、監督に行けと言われるまではとにかく待とうと思っていたら、益々差が広がって結局12対2で負けてしまった」
――試合後に國保陽平監督(当時)は、〈(前日の準決勝までにかなりの球数を投げていた)佐々木の故障を防ぐため〉と理由を説明した。
「僕の身体のことを考えて、そういう選択を取ってくれた監督を僕は責めることなんてできない。ただ正直、あそこで自分が投げていたら、もし勝って甲子園に行けていたら、チームメイトの野球人生も変わっていたかもしれない、という思いもある。外野からは何を言われてもかまわないのですが、一緒に頑張ってきた選手の将来に影響があったかもしれないことに関してだけは、本当に複雑でした」