「潔くカットして投げ捨て」というヘミングウェイの教え

 後年、私はヘミングウェイの「ミス・スタインの教え」という文章を読んでいて、ニヤリとした。伊東に言い返したくなったのだ。それは文学修業中のヘミングウェイがパリで腹を空かせながら書いたもので、

書き出しが妙に凝っていたり、何かを紹介するか提示するような調子になっていたら、そういう凝った渦巻き模様や無駄な装飾は潔くカットして投げ捨て、最初に書き記した簡潔で平明な文章に立ちもどっていいのだということに、私はすでに気づいていた (新潮文庫『移動祝祭日』に収録)

 とあった。彼はさらにこの一節の後に、

私は当時、自分の作品に奥行きを持たせようと努めていたのだが、そのためにはただ簡潔な真実の文章を書くだけでは足りないのだということを、セザンヌの絵から学んでいたのである

 と記している。私たち駆け出し記者は文章修行の玄関先でちょろちょろしていて、それを読書家の伊東は笑って励ましていたのだな、と思った。

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ヘミングウェイ ©時事通信

入社3年目の記者による息づかいが聞こえる筆致

 そして四つ目の教えは、「自分だけしか書けない記事を書け。それが特ダネだ。その一方で分かりやすい文章を書くことができれば、会社におもねる必要はない」というものだった。

 当時、朝日新聞の福島支局に配属されて3年目の吉田慎一(後にテレビ朝日社長)が、木村守江福島県知事の土地開発に絡む収賄汚職事件を取材し、福島県版に長期連載のうえ、『ドキュメント自治体汚職 福島・木村王国の崩壊』(朝日新聞社)を書いた。

 福島県天栄村という小さな村で起きた贈収賄が、県の頂点に君臨する知事の逮捕まで拡大していく過程を、息づかいが聞こえるような筆致で追った。

桑原は茶封筒を渡したあと、三十分ほどで席を立った。菅野は、自分の座ぶとんの下の茶封筒をポケットに移しかえ、桑原を玄関まで見送った。桑原が帰ってから自室に戻り一人で封筒を開けると、一万円札で三十枚あった。「前より多いな」と菅野は思った。

(中略)菅野も第四房に入れられ、一人ぼっちの生活が始まった。

 むろん、菅野にとって初めての経験であった。菅野の頭は、事件のことでいっぱいであった。日の当たらない三畳ほどの独房の中でじっと黙って物思いにふけった。つい昨日まで県庁課長として大きな机の前にすわっていた自分がうそのようであった

 このドキュメントで、吉田は1978年度の日本新聞協会賞を受賞している。

『ドキュメント自治体汚職 福島・木村王国の崩壊』

「特ダネを獲ること」と「人間を書くこと」の差

 トルーマン・カポーティやゲイ・タリーズらが牽引するアメリカのニュー・ジャーナリズムが話題になっており、当時、日本にも同様の手法が輸入されていた。伊東は私の前でそれを話題にした。彼は、朝日の支局で入社3年の吉田に追跡させ、支局長やデスクらが長期連載を支えたところに、自由な地方版の可能性を見いだしたのではないか。

 だが、その伊東も3年ほどで転出していった。後任の支局長は、「何が何でも特ダネを獲れ」と発破をかける厳しい人だった。新たな管理者の登場は良くも悪くも本州最北の支局の雰囲気をがらりと変えた。私は毎年のように一面トップで特ダネを書いた。よく記事を書いたという自負はあったが、特ダネを獲るということと、人間を書くということの間には大きな差がある。

 遥か西の大阪社会部では、社会部長の黒田清を中心とする記者たちが特ダネを獲り、連載をし、それを本にまとめていた。その存在は小さな師匠を失った地方記者の希望だった。前述の『作文教室』の最後に、井上ひさしはこう書いている。

書いては考える、考えては書く。そうして一歩ずつ前へ進みながら、ある決断を自分で下していく。

人間は書くことを通じて考えを進めていく生き物です

 伊東が去ると、文章作法を教えてくれる者はいなくなった。だが、後になって考えてみると、それはひとつステップを踏み上がり、自分で考えてものを書く始まりなのだった。

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