観光でも出張でもない、目的なき旅の途中で出会った“ボロ宿”たち。錆びた外壁とゆがんだ畳の奥に、忘れられた日本の時間がまだ眠っていた──。『ボロ宿』を探して旅を続けるフリーライターの上明戸聡さんが明かす「岩手県・花巻にある素晴らしい宿」とは? 新刊『改訂版 日本ボロ宿紀行』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。

大沢温泉の代名詞「大沢の湯」(写真:筆者提供)

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地元のばあちゃんたちが民謡で盛り上がる混浴露天

 古い湯治宿が好きです。中でも、“ボロ宿”巡りを始める前から30年近く通っているのが花巻の『大沢温泉』です。平安時代に坂上田村麻呂が見つけ、宮沢賢治や高村光太郎のお気に入りだったという歴史あるお湯で、『大沢温泉』というのが一軒宿の名前にもなっています。

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 何が魅力かと言えば、まず安さでしょう。2~3日泊まっても普通の宿の1泊料金より安いくらいなので、気兼ねなく行けます。それに何より、昔ながらの湯治場の雰囲気が残っているのがいいし、川沿いの混浴露天「大沢の湯」はじめ、お風呂がたくさんあることや、宿があまり客にかまわず放っておいてくれるところなどが私の好みにピッタリなのです。

 初めて訪れたのは東北地方をバイクで放浪していた20代前半のころでした。

20代の頃から通っている『大沢温泉』前(写真:筆者提供)

 一軒宿と言っても新館の「山水閣」、南部藩主の定宿だったという由緒正しき「菊水館」。

 そして湯治場の「自炊部」から成る大規模旅館で、そのときは飛び込みの当日予約で「山水閣」に2食付きで泊まりました。その後、「菊水館」にも1回だけ泊まってみましたが、やはり私が好きなのは「自炊部」です。

豊沢川の向こうに見えるのが「菊水館」(写真:筆者提供)

「自炊部」の玄関を入ると古そうな帳場があり、畳敷きの待合も湯治場ムードにあふれています。新館の「山水閣」は別の玄関がありますが、施設内で互いに行き来できる造りになっており、葺き屋根の「菊水館」は、「自炊部」の裏手を流れる豊沢川の向こうにあります。

 これまでに何度、行ったことでしょう。最初の訪問時からみると様子はずいぶん変わりました。建物はもちろん、各棟のお風呂もきれいに整備されたようです。

 かつて『大沢温泉』と言えば、「自炊部」に付属している混浴の半露天風呂「大沢の湯」が一番のウリでした。豊沢川のすぐ側にあり、水車なども見えるオープンでワイルドな露天風呂です。「山水閣」や「自炊部」にも貸切風呂や露天風呂などいくつかの温泉はありましたが、この宿に来る客はとにかく「大沢の湯」を目当てにしていたような気がします。