この記述が全て事実かどうかは定かでないが、事件で見せたのとは違うOの顔が見える気がする。親しくなった「ユキ」はYのことにも触れている。
あるパンサ(スリ)がずけずけと聞きました。「男のことはどない思うとるの? また訪ねて行くの?」「訪ねては行かないけどねェー」「忘れられへんやろ」「ちょっとぐらいはねェー」。前よりはだいぶマシになりましたが、そばで聞いている私には、はっきり言わないのがまだるっこくてたまりません。後日、私が「(Yを)思い出す?」と聞くと、「思い出す」と答えました。
事件の判決前、滋賀銀行はOを相手取って1000万円の賠償請求訴訟を起こし、全額認められた。返済可能な限度という判断だった。Oは服役中も作業の報奨金でうち40万円を返済した。そんな彼女が刑期を1年近く残して仮出所したのは1981(昭和56)年6月。その時の姿を、当時全盛だった写真週刊誌のうち「フォーカス」が捉え、12月18日号に載せている。
1999年7月15日発行「週刊新潮」の「金融界震撼 滋賀銀行『O』に『9億円』貢がせた『優男』(下)」によると、仮出所直後、Oは母とともに取り調べを担当した滋賀県警警部の自宅を訪ね、報告している。警部にとって、刑務所に送った人間が挨拶に来たのは初めてだった。
その後の彼女について、同誌は1999年の発行時点で「母親が亡くなった後、京都市内の棟割り長屋で姉と二人暮らししている」「これ以上、静かな暮らしはない」と書いている。一方のYは出所後もタクシー運転手をした後、北九州に在住。知人の話として「孫を連れて毎日競艇に出かけている」との近況を伝えている。
ウーマンリブ団体からの声「偉大なOさんに…」
「このニュースを最初に聞いたとき、実に痛快であった。『よくやった』。思わず肩をたたきたくなった」
「現代の眼」1974年3月号で事件の感想をこう書いたのは、当時ピンクのヘルメットで派手な活動を続けていたウーマンリブ団体「中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)」の榎美沙子代表だった。「“つまみ喰いOL”弁護論」と題して、「女性は職場や家庭で正当な労働報酬を盗まれてきた」から「女が自分の職場で奪われた富を取り返したということがうれしかった」と書いた。
末尾では「さて、全国のOLたちよ、偉大な先輩Oさんに続こうではないか」とあおっている。しかし、やがて「中ピ連」などウーマンリブの活動は下火になり、榎代表は1977年参院選に出馬して落選。直後に「中ピ連」は解散した。
