経営合理化のほかに、人手不足という理由もあった。1952(昭和27)年に横浜市交通局がワンマンカーを導入した理由は、女子車掌が22時以降の就労を禁じられていたからだ。この頃、路線バスの車掌は若い女性が多く、人気の職業だったようだ。1957(昭和32)年に歌謡曲で『東京のバスガール』がヒットしている。この歌のモデルは「はとバス」のガイドさんだったけど、路線バスの女性車掌の心にも響いただろう。

いまや路線バスのほとんどがワンマン運転だ(写真ACより)

 当時、法令によってバスには車掌の乗務が義務づけられており、ワンマンはあくまで「特認」の形だった。高度経済成長によって女性の進学率が上昇し、中卒や高卒で働く女子が減っていったことを背景に、運輸省(当時)は運行の安全、旅客対応、運転手の労働条件を検討し、1961(昭和36)年に法令を改正。ここから「ワンマンバス」を推進していくことになった。バスと道路を供用する路面電車も事情は同じで、名古屋市交通局が1954(昭和29)年2月に車掌省略を始め、他の路面電車も追随していった。

鉄道でもワンマンが広がった経緯

 鉄道のワンマン運転は、1962(昭和37)年3月に名古屋鉄道モンキーパーク線が採用した。この路線は鉄道事業法に基づくモノレール路線で、鉄輪式の鉄道としては、1971(昭和46)年8月に関東鉄道の竜ヶ崎線でワンマン運転が始まり、同年10月に日立電鉄線も採用するなど、広がりを見せる。ただし、当時の法令では列車防護係員(車掌)の乗務が義務づけられていたため、国から「特認」を受けての運転だった。

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名古屋鉄道モンキーパーク線(犬山モノレール) 筆者撮影

 1979(昭和54)年に地方鉄道運転規則が改正されて、線区の状況によりワンマン運転を実施できるようになった。モータリゼーションによって地方の鉄道離れが進む中で、中小企業の合理化を推進するため、ワンマン運転の採用が広がっていく。

 JRの前身の国鉄では、旅客の乗車しない列車、つまり貨物列車で1969(昭和44)年から車掌省略が始まっていた。最初は一部の単線区間のみだったが、日本国有鉄道運転規則の改定で複線区間でも認められた。蒸気機関車が電気機関車やディーゼル機関車に切り替わってブレーキ性能が上がり、ブレーキ役の車掌車の存在が薄れたとともに、機関士をサポートする列車防護無線装置など保安装置が整備されたことが大きい。

 貨物列車の運用も変わり、旅客駅で貨物を扱わず、貨物駅同士を結ぶ輸送形態に変わると、車掌の事務仕事も減少。車掌を省略できる区間が増えていき、ついに1985(昭和60)年3月のダイヤ改正で車掌の乗務を原則として廃止した。車掌車や車掌室付きの貨車のほとんどが廃止された。