なぜ“新幹線が通るだけ”のまちに?

 かつての古河は、日光街道の宿場町であると同時に古河藩の城下町でもあった。さらに遡れば、室町時代には上杉氏に鎌倉を追われた鎌倉公方の足利成氏が新たに拠点を置いた地でもある。以後は130年にわたって古河公方と呼ばれ、この地に文化をもたらした。

 

 さらに江戸時代に入ると譜代大名が入れ替わり立ち替わり入った古河藩の城下町。幕閣の中枢を担った藩主も多く、たとえば土井利位は江戸時代後期の幕政を牽引した老中だった。利位時代の家老・鷹見泉石は蘭学者としても名を残している。

 

 その時代の古河藩は、現在の古河市内、つまり茨城県内に留まらず、下野(栃木)・上野(群馬)・武蔵(埼玉)各国にも領地を持っていたという。

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 明治に入ってあれこれ境界線が整理され、結果として古河の名は茨城県内の一部だけに残ることになったが、江戸時代260年を通じて古河といったら4国に跨がるエリアだった、ということになる。

 

 もちろんいまでも、古河市周辺は西側を流れる渡良瀬川や利根川などを境界に、千葉・埼玉・栃木・群馬の4県境が近接している。

 そしてこうした地理的な事情が、“新幹線が通るだけ”という古河の町の個性に繋がっているのだ。

 

 古河駅が開業したのは、1885年のこと。このとき、大宮~宇都宮間が開通している。

 ただし、古河駅開業時点では利根川を渡る橋が間に合わず、その間は渡し船を使っていた。橋が完成して名実ともに開通したのは1886年になってからだ。