レジャー都市になれたワケ

 駅と東海道を結ぶ通りが現在のエメロードや一里塚通りとなり、さらに駅の南側にも大きな変化が現れる。東京からの時間距離が大幅に短縮されたことで、別荘地として発展したのだ。

 

 文化人や政財界の要人が茅ヶ崎の海沿いに別荘を構え、明治末には実に200以上もの別荘が並んでいたという。

 

 さらに1898年には海水浴場も開かれ、1899年には結核患者のための療養所「南湖院」も開設された。

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 別荘にサナトリウムに海水浴場。いまとはかなり趣が違うものの、保養・行楽の地としての茅ヶ崎はこの頃からはじまったといっていい。

 

 ただ、そんな茅ヶ崎も戦中にはまたも変化に晒される。都心からの工場疎開によって、東海道より北側を中心に多くの工場が置かれたのだ。

 相模線からは工場への引き込み線が多数設けられ、戦後に至っても内陸部へと工業地帯は拡大する。

 

 戦後、茅ヶ崎は東海道線と国道1号を境に北は工業地帯、南は行楽地帯という、ふたつの側面を有する町として形作られていったのである。