八雲に関する書籍では、この経緯を「異教徒であったこと」「気候になじめなかったこと」と、比較的あっさり記すものも多い。

しかし当時の状況を踏まえれば、これは極めて残酷なことだった。ハーン一族は国教会の信徒であり、アイルランド社会の多数派はカトリックだった。宗教は単なる信仰の違いではなく、身分や帰属を分ける境界でもあった。その中で、正教会という第三の信仰は、生活の感覚からして大きく隔たった存在だった。

「宗教観の違い」に精神を病んだ母

週末の礼拝ひとつとっても違いは明白だ。カトリックや国教会では、比較的簡素な内装の教会で、質素な祭服をまとった司祭が祈りを捧げ、パイプオルガンの音色に合わせて賛美歌が歌われる。一方、正教会の礼拝は、蝋燭の光が反射するイコン(正教会で信仰の対象として崇敬される聖画像。生神女マリアや聖人が描かれる)に彩られた聖堂で、香が焚かれ、鮮やかな祭服をまとった司祭とともに執り行われる。

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とりわけ大きく異なるのは、日常に根ざした宗教観だ。

現在でもギリシャ正教の世界では、人々は日本人がご先祖のために手を合わせるような感覚で死者のために祈り、家庭や聖堂に置かれたイコンの前で祈りを捧げる。また、地域にゆかりのある聖人は、日本の地元の神社に親しみを抱く感覚に近いかたちで崇敬され、日々の生活の中で名を呼ばれる存在だ。

現代でこそ、多様な文化があることは情報として誰もが当たり前に知っているが、19世紀のアイルランド・ダブリンの感覚では、異様な信仰・常識・価値観にしかみえない。なにより、彼女は英語をまったく話さなかった。一応は、ギリシャ語を理解するメイドを雇ったりしたものの、十分とはいえず、ローザが精神を病んだのも当然であった。

八雲とは生き別れになった

そんな中1854年に父・チャールズは自ら希望してクリミア戦争に出征。その間、八雲の弟・ダニエルも生んでいたローザは、休養をかねて里帰りしてはといわれて実家に帰されたのである。