実のところチャールズが出征を希望したのも、離婚をスムーズにすすめるための手段だったということだろう。ローザもまさか、そのまま離縁状を叩きつけられて、二人の息子と生き別れとなるとは思っていなかった。
八雲の息子・一雄の『父小泉八雲』(小山書店1950年)では、離婚から1年ほどしてローザは息子を取り返すためにダブリンにやってきたが、会うこともできずに帰ったとある。その後、彼女はキシラ島出身のイタリア系男性ジョヴァンニ・カヴァリーニと再婚し、4人の子供をもうけた。彼はイオニア諸島のオーストリア=ハンガリー副領事を務める地元の名士だった。
しかし、ローザの精神状態は回復せず、1872年3月、49歳の時にコルフ島の精神病院に入院。そのまま10年間を病院で過ごし、1882年12月12日、59歳で生涯を閉じた(Kythera Family Net “Notable Kytherians - Levkadios Hearn”による。1953年7月13日付でコルフ島国立精神病院の記録係Spyro Stephから八雲の弟ジェームズの孫娘Mrs. Bebowに送付された証明書に基づく)。
八雲の母への思慕は増していった
八雲が生涯母を慕いながらも、一度もギリシャに赴かなかったのは、なぜだろうか。母は既に再婚して新しい家庭があると聞き及んでいたのか。あるいは、母の居場所すら正確には知らされていなかったのかもしれない。
母を冷酷に追いだした父には生涯会うことがなかった八雲だが、その父の親族には母の写真が一葉でもないかと訊ねた手紙も残っている。その思いの強さが溢れ出た八雲の言葉を一雄は次のように記憶している。
「もしあの酷いのパパさん私を訪ねて参りましょうならば、私、さようならいいます。私玄関から『往んでくれ、もう来るだない』(出雲弁)と叫びましょう。ああ、ただし、もし私のDear Mammaさんが参りましょうならば、おお私なんぼう喜ぶ。心から『よくいらっしゃいました』をするでしょう」とある晩、食後の歓談中に漏らし、私は思わず瞠目したことがあった。