そして、その空白を埋めたのが、日本だった。

八雲が日本で出会ったのは、まさに失われたギリシャ正教の世界観と同じ構造を持つ世界だった。死者は消え去らず、盆には帰ってくる。祖先は常に見守り、祈りを受け取る。地蔵や稲荷は、ギリシャの聖人のように、日常の中で名を呼ばれ、頼られる存在だ。

そして、怪談。

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ドラマでヘブンが「水あめを買う女」を聞いて号泣するシーンは、史実に基づいた創作だ。この創作は、実際の八雲が「死者が愛する者のために戻ってくる」物語に、深く心を動かされていたことを感じたからこそ、生まれたといえる。怪談の物語の構造が、まさに八雲が失った世界観そのものだったからだ。

母が子に語る、寝物語の構造

死んだ母が、土の中で生まれた我が子のために幽霊となって飴を買いに来る。これは単なる「怖い話」ではない。死者が愛する者のために戻ってくるという、八雲が生涯求め続けた世界観の物語だった。

八雲にとって怪談とは、「母の声」そのものだったのである。

そして、その怪談を語ったセツこそが、八雲にとって失われた「母」そのものだった。

セツは学のある語り手でも、文学的な構成者でもない。だから、彼女の語る怪談には、西洋文学のようなオチも、明快な説明も、道徳的な教訓もない。ただ「そういうものです」で終わる。

これは、まさに母が子に語る寝物語の構造そのものだった。

八雲は日本語が不得意だった。セツも英語を自在に操れたわけではない。二人の間で交わされる言葉は「ヘルンさん言葉」と呼ばれる、二人だけで通じる独特の言語となるほどだった。

通常なら、これは深い意思疎通を妨げる致命的なものになってしまう。だが、八雲とセツにとって、この不完全さこそが救いだった。

失われた「母の声」を求めて

言葉が足りなくても、相手は待ってくれる。うまく説明できなくても、理解しようと耳を傾けてくれる。沈黙が訪れても、それは拒絶ではなく、次の言葉を探す時間として許される。誤解が生じても、それで関係が壊れることはない。