脚本家で作家の内館牧子さんが12月17日、急性左心不全で亡くなった。77歳だった。内館さんは2023年6月から毎月、「文藝春秋」でエッセイを連載中だった。最後まで綴り続けた連載「ムーンサルトは寝て待て」の初回を紹介します。

◆◆◆

12月17日に亡くなった内館牧子さん ©文藝春秋

「内館さんは脳の前頭前野にいいことを、何かやっていますね?」

 今から20年ほど前、加齢医学研究で名高い川島隆太東北大教授の言葉だ。

ADVERTISEMENT

 川島教授は認知機能の低下を防ぐには、また罹患の認知症を少しでも改善するには、前頭前野の訓練がいいとする理論を発表。それは生活に取り入れやすい訓練であり、大きな話題になった。私は対談でお会いしたのだが(『おしゃれに。女』潮出版社所収)、今も「ちょっとのストレス」という言葉を思い出す。

 川島理論の前頭前野の訓練は簡単で、毎日5分間、「音読」を続けるだけだ。人間の脳は「文字を音にする」という作業をとても喜ぶそうで、非常に血流がふえるという。川島教授は「音読は脳の全身運動」と言っていいと断じた。音読する文章は、夏目漱石や芥川龍之介ら近代文学が最もリズムがいいそうだ。むろん、新聞や雑誌でもいい。

 教授たちのチームでは、老人介護施設や高齢化の進む町に、訓練への協力をお願いした。一例として福岡県の介護施設では、77歳から98歳までの44人に、音読と一桁の単純計算を毎日15分やってもらった。

 結果、医学の専門家が驚く効果が出て、最も顕著な例では1か月の学習でオムツが取れた。寝たきりの2~3割に、2か月ほどで排泄の自立が起きた。前頭前野の能力が高まった結果だという。

イラスト・題字=紙谷俊平

太宰治『富嶽百景』を読む

 私はせっかくのチャンスなので、川島教授の前で音読しようと考えた。当時56歳だった私の前頭前野が、きちんと働いていないならうまく音読できないだろう。太宰治の『富嶽百景』の冒頭部分を読むことにした。教授は、

「少し速めに読むのも、脳を働かせるコツです。『ちょっとのストレス』をかければいいんです」

 とおっしゃる。つまり、感情を入れず、文字を目で追って速く口に出すのが訓練になる。抑揚をつけて気持を込めて読むと、かえって脳は働かないという。

 私は自分自身の前頭前野に潜んでいるマイナス因子を覚悟して読んだ。すると教授は、

「すごくスムーズで驚きました。ふつうの人はこれだけスムーズに読めないですよ」

 と驚かれたのだ。本当である。そして冒頭の言葉になるのだが、私が前頭前野にいいことなどやっているわけがない。第一、前頭前野が脳のどこにあるのかさえ、よくわからないのだから。