「我々とあなた方は『水と油』みたいなもんだ」ソープ業者から温泉組合への接近を試みたが…

 前述の実業家、田守世四郎氏が昭和46年に、雄琴ソープ(当時はトルコ風呂)1号店『花影』を開業した(昭和44年開業の『歌麿』を1号店とする資料もある)。これを皮切りに、許可エリア内では、雨後の筍のごとくソープランドが生まれ、濃縮された「色」の一角ができあがっていく。地域にとって、田守氏らをリーダーとするソープ営業者たちは無視できない存在となってきた――。

ソープランドの看板が目を引く(筆者撮影)

 田守氏は、やがて温泉宿側にも接近してきた。昭和40年代後半のことと思われるが、ある日、当時の温泉組合の理事長のもとへ重要な談判にやってきた田守氏。C氏はその場に同席していた。要望は、温泉組合へのソープ側事業者の加盟だった。一緒にやっていこうというわけだった。

「理事長は、ダメだと。どうしてかといえば、我々とあなた方は『水と油』みたいなもんだと。裏と表みたいなもんだと。むしろ、『列車のレール』のように、交わらないけども並行してやっていこう。そう田守さんに答えたんです」

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 以来、ソープ側業者たちは自前の組合を結成して、こんにちに至るまでお互いが公式に手を結んだことはない。ただし、それは、あくまでも両者のトップ同士の合意であり、各々の事業者間、現場間では様子が異なる。レールは、交わってしまった。

「旅館側からソープへ客を紹介すると、キックバックが支払われるように…」温泉旅館とソープランドの蜜月

「(宿の経営者のなかには)議員さんを動かして許可を下ろさせ、土地の取得、インフラ整備をやった人たちもいます。(宿・色街の両者間を繋ぐための)土地をもって、通行料を取ったり、水道管を通したりして利益を上げた人も実際にいると聞いてます」

 結局、温泉街の人々は、色街「連携派」と「否定派」、二手に分かれたのだった。

 背景には前述の通り、大規模設備投資に踏み切ったものの、万博閉幕後、思いのほか集客が伸び悩んだことがある。田守氏らを救世主、神風と捉えた「連携派」の旅館とソープランドの密着は、ますます盛んになっていった。

雄琴にあるお城のようなソープランドも(筆者撮影)

 前出の関係者・A氏の証言とも一致するが、旅館側からソープへ客を紹介すると、キックバックが支払われるようになった。旅館へは盆暮れには贈り物が届き、フロント係、支配人クラスになるとソープ業者から海外旅行に連れていってもらうこともあった。周辺業者も密着をつよめた。

「お客が駅を降りてきて、タクシーに乗ろうとして、『どこ行きますか』と聞かれて、どこかの旅館名を言ったら、はい、お断り。ソープランドへ行くって言ったら、『どうぞどうぞ乗ってください』、そういう状況の時代があった。1人乗せたら(キックバックが)5000円ぐらいだったかな。4人乗せたら2万円。(ソープ事業者に運転手が)家を建ててもらって、返済をそのキックバックで賄っていくという、そんなことまでありました」