「ユーミンもそうですし、ニューミュージックの人たちが羨ましくて」

 フォークシンガー・俳優の武田鉄矢さん(76)は、これまでいくつもの困難を乗り越え、成功を手にしてきた。

 例えば『母に捧げるバラード』が大ヒットして1974年に紅白歌合戦への出場を果たすも、半年後にはフォークブームが去るとともにニューミュージックの波が到来。派手なステージで歌っていたのもつかの間、半年後にはリンゴ箱の上で歌い、「やけくそだった」と振り返る日々を過ごすことになる。冒頭の発言は、当時のことを率直に語った武田さん本人の言葉だ。

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 音楽活動を辞めようと思っていたという当時の心境や、その後の活動の礎となる俳優活動に踏み出したきっかけを聞いた。(全3回の1回目/続きを読む)

一時は芸能活動を辞め、九州に戻ることも考えていたという ©三宅史郎/文藝春秋

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娯楽といえば「バナナの皮のにおいを嗅ぐこと」くらいだった

 タバコ屋の次男として生まれた武田さん。家は決して豊かではなく、バナナもおいそれと買えない状況だったから、数少ない娯楽のひとつが、机の引き出しにバナナの皮を入れて、たまに開けては嗅ぐことだったという。

 そんな武田さんにとって、団塊の世代、800万人を味方につけてザ・フォーク・クルセダーズが『帰って来たヨッパライ』をヒットさせるなど、フォークソングの世界は夢のあふれるものだった。

「いまでいう、インディーズですよ。レコード会社の力を借りないで、深夜ラジオで火がついて大ヒットした。いまならば、ちょうどYouTubeで有名になってゆくような、それに似ているのかもしれません」

 1971年、海援隊を結成。しかしすぐに売れるほど世の中は甘くない。72年に上京するもさっぱり売れず。

デビュー当時の海援隊(写真提供=株式会社ネクストワン)

『おふくろさん』を基に、伝説の1曲が生まれた

 フォークシンガー「武田鉄矢」の名が世に知られるきっかけといえば、1973年に海援隊として発表した『母に捧げるバラード』だろう。ロングヘアにジーンズの風体。曲のほとんどが博多弁の語りで、母への思いを歌い上げ、じわじわと売り上げを拡大していった。武田さんは当時をこう振り返る。

武田鉄矢の名を知らしめるきっかけになった『母に捧げるバラード』(Amazonより)

「『これ以上売れなければ福岡に帰れ』と所属事務所の人に言われて、帰郷したときの言い訳に書いたのが『母に捧げるバラード』だったんですよ。当時森進一さんの『おふくろさん』が売れているからそれのコミック版だと。メロディを作っている時間もないからほとんどをセリフにしたんです」