実はこの事件は少し時間がたつとほとんど忘れ去られた。半世紀を過ぎて作家・戸川幸夫と吉村昭によってそれぞれ小説化され、世間に広く知られるようになったが、2人が創作の基にした資料は、現場周辺を管轄する古丹別営林署の林務官だった木村盛武が独自に調査し、事件の生存者らにインタビューを重ねてまとめた記録だった。1965年刊行の冊子「獣害史最大の惨劇 苫前羆事件」をはじめ、同じ題名などで雑誌や単行本で取り上げており、現在は『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(文春文庫)で読める(ダイジェストは文春オンラインでも)。
当時の新聞報道が不完全なことから、この文章でも彼の記録で補強するしかない点が多い。記録のうち雑誌「苫前羆事件 ヒグマ10号別冊 獣害史最大の惨劇」(1980年)によれば、事件の舞台となった苫前村は北海道の中心地・札幌から北北東に約180キロ。ニシン漁が盛んな漁港の苫前中心部からも約30キロ離れており、古丹別川の支流・三毛別川に注ぐルペシぺナイ川(通称六線沢、御料川とも)に沿って上流に入った御料地(皇室の所有地)の開拓地だった=当時の北海タイムス報道では「苫前市街から4里(約16キロ)」。当時の地名は北海道天塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料地農地六号新区画開拓部落六線沢(現苫前町三渓、通称六線沢)と長い。
被害に遭ったのは入植者の人々
明治維新後、皇室の財産を増やす目的で官有林、官有地を御料林、御料地に編入する動きが強まり、北海道でも1890年から8カ所の国有林200万町歩(200万ヘクタール)=東京ドーム42万6000個分、当時の北海道の山林の約半分=が、うち天塩国では33万5000町歩が御料林とされた。4年後にはその3分の2が北海道庁に下げ渡されたが、苫前は御料林として残った。その後、御料林内の農業適地について農民の入植・開拓を認める方針が進められ、開拓地が広がった。
『苫前町史』(1982年)は「この地域には明治43(1910)年ごろから相前後して隣村の鬼鹿、大椴(おおとど)=いずれも現小平町=の両開拓地より新懇地を求めて15戸の入植者があったが、被害にあったのはこれらの人々である」と記す。『慟哭の谷』はその2カ所に加えて「東北の河辺から」と記述しており、秋田県河辺町(現秋田市)と思われる。
吉村昭『羆嵐』はフィクションだが、六線沢の開拓農民は東北地方の同じ村にいたものの、困窮し、指定された築別(現羽幌町)の御料地に入植。そこがすさまじい蝗害(こうがい=イナゴの被害)に遭ったことから、御料林を管理する帝室林野管理局の指定で六線沢に移転したとしている。あるいは、元々は秋田の農民だったのかもしれない。



