ノソリノソリと歩いてくる熊の腹に1発命中させて

 そして、惨劇にも終幕が訪れる。

 この椿事は付近の村民を驚かせ、我先にと樺の皮を焚きつつ避難する者が多く、途中、取り替えるため投棄した火は十余丁(1キロ以上)にわたり、まるで古戦場をしのばせる光景を呈した。翌11日、鬼鹿村から応援隊として山本兵吉以下9人の鉄砲熟練者が続々来たり、村民と警察分署員の一隊を補助。昼間は熊の足跡をたどって山中深く追撃しようとしたが、恐怖で躊躇、逡巡する者が多かった。加えて、雪中で険しい場所のため歩くのも自由でなく、成果が挙がらないまま、明景家に張り込む一方、最も銃に熟練している者を7人ずつ、約14間(約25メートル)離れた小川を挟む要所を選んで拠点とし、銃7丁を備えて徹夜で見張り、熊の出現を待ち構えた。

 下流の大川家が熊狩り本部とされ、羽幌警察分署長が本部の隊長となったが、木村盛武の記録は、帝室林野局分担区員の喜渡安信技手が統率力、指導力に優れ、開拓地の人々から信頼されており、その後の山狩りは「土地鑑があり農民に顔の広い分担区員(喜渡技手)が実際の采配を振るうこととなった」(「ヒグマ10号別冊」)と述べている。

事件の発生地点を記したマップ(『慟哭の谷』1994年より)

 獰猛極まりなく人間の肉の味をしめたかの巨熊は14日午前9時ごろ、ノソリノソリと人家を指してゆっくり歩いてくるのを発見。一同用意を整え、7人は銃を携えて川岸に進み、銃を持たない村民300人余りは鎌やまさかりなどを携えて八方に団を組み、家の屋根に上ったり、木陰に身を隠したりして熊が対岸に来るのを待った。熊は家人が立ち退いた川岸の家を襲って鶏数羽を食い、しばらくして出てくると、24~25間(約44~46メートル)前方まで近づいた。分署巡査部長が1発目を撃ったのに続き、7人が2発ずつ計14発を放ち、さながら活動写真(映画)を見るように壮観だった。
 

 山本兵吉の1発が見事に熊の腹部を貫き、なおも暴れて雪煙を立てて逃げようとするのを、追撃して2発命中。さすがに猛り狂う巨熊も3発の銃弾を浴びせられたのが致命傷となってうち倒れた。村民が寄ってたかって殴りつけ、ついに打ち止めたが、年齢8歳ぐらい、身長9尺(約2メートル70センチ)余り、体重70~80貫(約263~300キロ)。銀毛混じりの稀有の巨熊で、皮は直ちに剥ぎ、肉は村民一同で分け、太田母子その他の仇を報いたのを喜び、安堵した。

明景ヤヨ。眉間に熊の爪痕が残っていた(「ヒグマ10号別冊」より)
山本兵吉。帽子と銃は日露戦争従軍時の戦利品という(『苫前町史』より)

 他紙だけでなく、北海タイムスも前は「金毛」と報じていたが……。山本兵吉をはじめ銃に熟達していたのはマタギ(山間部に居住する伝統的な猟師の集団)だった。(つづく)

次の記事に続く 巨大ヒグマが村に出現→8人を喰い殺した…“史上最悪の熊被害”で見落とされていた“ある視点”とは《大正4年・三毛別熊事件》

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