「熊害大惨事の詳報」はこの後、約300人が11日から山狩りを実施したが、成果がなく、12日になって、11日に第2の被害があったとの知らせがあったと書いている。しかし、木村盛武の調査によれば、第2の被害があったのは太田家で通夜があったのと同じ10日夜。『苫前町史』もそれに沿っている。「ヒグマ第10号別冊」は「ほとんどの記録、証言などによっても12月11日となっており、遺族の一部ですら、かく信じ込んでいる」とし、「本事件最大の疑問」としている。何かの記憶違いがそのまま定着したのだろうか。以下、木村の調査に従って修正して引用する。

 第2の被害とは10日、第1の被害があった太田三郎方で、遺体を納棺し、付近の者十人余りが集まって通夜が行われていた午後8時ごろ、突然棺が置かれていた側の板戸を破り、1頭の巨熊が乱入。火を恐れたものかランプをたたき落として真っ暗にし、暴れ回った。
 

 居合わせた人々は仰天して一斉にときの声をあげ、銃を携えた1人は機転を利かせて空包を放ったので、さすがに獰猛無比の巨熊も鉄砲の音に驚いたのだろう、逃げて姿を隠した。約40間(約73メートル)離れた隣家で警戒中の数名はときの声を聞き、銃をとって太田方へ駆け込んだが、熊はその間に60間(約109メートル)隔たった明景(みょうけ)安太郎方に侵入。生き地獄を現出させていた。

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 研究者らによれば、熊の習性として、自分の獲物を取り戻しに来たのだという。この時発砲したのは日露戦争帰りの“勇者”だった。明景家は太田家から約500メートルの距離。斉藤家からは約900メートル下流で比較的安全とみられていた。

暴れ回る熊から逃げ惑い、次々襲われ…“阿鼻叫喚の惨状”

 明景家は当主の安太郎が所用で隣村に出掛けており、家には妻ヤヨと子ども6人、そして山の上から避難してきていた斉藤石五郎(駐在所などへの連絡に出掛けていた)の妻タケと五男の巌、六男春義の女性と子どもだけがいた。炉端に集まり、不安に包まれていたところ、血迷った巨熊は恐ろしい勢いで突入。暴れ回って灯火が消えた暗闇の中、熊は鋭い眼光で猛威を振るった。
 

 一同は逃げ惑い、子どもらは「助けてくれ!」と泣き叫んで阿鼻叫喚の惨状を呈した。獰猛極まりない熊は、梅吉を背負って前は勇次郎にすがりつかれほとんど気絶しそうなヤヨを捕らえて梅吉の足にかみついた。親子もろとも抱き締めて軽く2~3度、その頭部をかんだ。勇次郎は頭が熊のあごの下に挟まれていたため、かまれずにすんだ。
 

 要吉が慌てて屋外に逃げようとするのを熊は床を蹴って追いかけ、捕えようとした瞬間、ヤヨは負傷しながら勇次郎の手を引いて逃げ出した。要吉は熊に一撃を浴びせられて右手としりに爪の傷を負ったが逃れ出た。要吉が転ぶようにして走り、太田家へ急を告げたので、居合わせた一同は一斉にときの声をあげ、あるいは石油缶をたたいて各所に火を立てて大騒ぎとなった。