食い尽くされて残った両足が現れた

 木村盛武の記録によれば、3丁が不発だった。当時の開拓小屋は粗末で、ほとんどは草で囲っただけ。板囲いだったのは太田家だけだったという。小樽新聞で連載された「不安の六晝(昼)夜 苫前三毛別猛熊退治後聞」は、太田三郎一家は前年11月、(隣村の)鬼鹿村(現小平町)から移住してきたと書いている。ここまでが「熊害大惨事の詳報」の第1回。第2回以降も詳しい叙述が続くが、当時の新聞記事らしく、次のように美文調で活劇ふうの文章が目立つ。「寂寞を破り、轟然響く1発の銃声も、狙いも違って空しく巨熊を怒らせるのみ……」。整理しながら記述を追う。

大正初期の開拓小屋。こうした板囲いは極めて稀だった(「ヒグマ10号別冊」より)

 猛り狂う熊は恐ろしい牙を見せて肉薄。危険が迫ったため、30人余りの人々は逃げ帰った。熊はそれ以上追ってこなかったので、一同は危険を免れたが、そのままにしてはおけず、勇を鼓して再び熊がいた所まで進んだ。雪を盛って小さな穴が開けてあるので、掘ってみたところ、大量にかき集めた笹や樺の葉の中から、食い尽くされて残った両足など、マユの遺体の一部が現れた。一同は身を震わせて、その旨を古丹別巡査駐在所と帝室林野管理局(札幌支局)羽幌出張所古丹別分担区員に届け出た。

阿部マユの遺体はこのトドマツの根元に隠されていた(「ヒグマ第10号別冊」より)
小樽新聞も事件の経緯を「不安の六晝夜」で連載した

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 木村盛武の記録によれば、その使者に立ったのが開拓農民の斉藤石五郎だった。はじめはクジでほかの人間が行くことに決まっていたが、気が進まないとして石五郎に代わりを依頼。妻子を安全な場所に避難させることを条件に引き受けた。これが悲惨な運命の始まりだった。