こうしたところからも分かるが、当時の人々はこの羆に一種、人智を超えたものを見ていたように感じる。熊を神とあがめたアイヌの感覚に近い。確かに羆の行動からはまるで何か、人間に対する明確な殺意と戦術があるように思える。彼らが「魔獣」と呼んだ意味が分かる。

 さらに、羆を狙った銃の多くが不発だったことや、蓮見幹雄の母が12月9日未明、幹雄が夢枕に立って「太田のおばさん(マユ)がこんなになってしまった」と歯が抜けた櫛を見せたと証言したこと、そして、ほかにも人々が何気なく言ったことばが“予言”のように的中したことが輪をかけた。

射殺された羆は解体されて

 射殺された羆は現場から苦労して約6キロ離れた三毛別青年会館に運ばれ、解体された。胃の中からマユが着けていたブドウ色の脚絆(きゃはん)の一部と大量の毛髪が出てきた。さらに、集まった人たちが口々に、前にも人を食ったことのある羆だと証言。その言葉を証明する衣類などが次々出てきて驚かせた。しかし、それ以上の真偽は分からないと木村盛武※の記録は言う。皮は板枠に張り付けられ、青年会館前で天日乾燥されたが、その間も棒でたたくなど、村民らの“復讐”が絶えなかった。

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※木村盛武=当時現場周辺を管轄する古丹別営林署の林務官で、独自に調査し、事件の生存者らにインタビューを重ねてまとめた人物。現在その記録は『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』で読める。

 ほかに、新聞報道には見られないが、木村盛武の記録にはいくつかエピソードがある。

1. 事件の半月以上前の11月中旬から3回にわたって、問題の羆と思われる巨熊が開拓農家の軒先などのトウキビ(トウモロコシ)を食い荒らす出来事があった。マタギが警戒中に羆が現れたが、マタギの1人が焦って発砲したため逃げられた

 

2. 熊狩り本部は12月11日と12日の夜、明景安太郎宅で、胎児を含む犠牲者の遺体をおとりにして、銃を持った8人が張り込んで待ち受けたが、姿を現した羆はわなを見破り、屋内に踏み込まなかった

 

3. 六線沢下流の池田家では12月13日未明、熊狩り隊員40人がたむろしていたが、「羆が近くの家に侵入したらしい」という情報が入った後、屋外に積んであった薪が崩れて大きな音を立て、馬が暴れ出して馬小屋から飛び出した。隊員が薪を取りやすい下の方から抜いたためだったが、中にいた者は慌てふためいて物陰に隠れ、普段勇ましいことを自慢にしていた1人の男は台所の下に潜り込んだ。そこへ後から飛び込んできた男が着ていたヤギの皮の刺し子を嫌というほど顔にこすりつけられた。やがて羆ではなかったことが分かり、皆出てきたが、自称勇者は「すんでのところで羆のエサになるところだった。羆の睾丸を顔にこすりつけられた」と大騒ぎ。「羆の金玉事件」として後々まで宴会などで寸劇にされて笑いのタネになった