「第3日、9月1日」

 

「午後は札幌農学校に臨御。陳武場の楼上において生徒(の)理化学の実験を天覧に供し、畢(おわ)りて博物場に臨御。天覧品中には、斯(か)の前年、丘珠村にて民家に入り、人を喰いし猛熊の剥製も陳列されて、開拓地の凄惨なる一面を展(の)べるが如くであった」

「前年」は「3年前」の誤りだが、剥製だけでなく、アルコール漬けの犠牲者の遺体の一部も保存されていたという。この話はさらに「牡丹灯籠」などで知られる落語家・三遊亭圓朝が1886(明治19)年、元勲の山県有朋(当時内相、のち首相)、井上馨(当時外相)らに従って北海道に出向いた際の体験談をまとめた『椿説蝦夷訛』に織り込んで話題になった。

『慟哭の谷』は、丘珠事件が正確な記録が残されたのに比べて、三毛別事件は「新聞報道以外に信憑性ある事件記録も物的証拠も残されていなかった」ことと、丘珠が大都市札幌に隣接しているのに対し、北海道の北西部の避遠の一寒村で起こったことを「かすんだ」理由に挙げている。

開拓民の苦難への関心は薄くなっていた…当時の“空気”

 付け加えれば、丘珠事件から三毛別事件まで37年余り。時代が変わっていた。開拓使は天皇が観覧した翌年の1882(明治15)に廃止されるが、当時はまだ北海道開拓は推進しなければならない国家プロジェクト。開拓地での開拓者の苦難に天皇が心を寄せていることを示す必要があった。その後の日清戦争に次ぐ日露戦争の膨大な戦費支出で国家経済は疲弊。北海道開拓につぎ込む資金がなくなり、なんとか1910(明治43)年から第1期拓殖計画をスタートさせた。それには鉄道路線の開設・延伸も関連していた。

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 三毛別御料地への開拓民入植もそうした展開の小さな要素だったのだろう。明治から大正に代替わりして北海道開拓の性格が変質。以前より開拓民の苦難への関心は薄くなっていたのだろう。さらに、現場が御料林であることから、皇室のマイナスイメージになると考えられた可能性も……。

 事件が落着した後の1915年12月23日付北海タイムスのコラム「閑是非」は、当時の大隈首相とひっかけて次のように書く。

「北海道の苫前ではホントの大熊が現れ、人を食い殺すこと7名、負傷者十数名。実に前代未聞の珍事である。今年ほど熊公の跋扈(ばっこ=思うままのさばる)する年はない。至る所、熊害頻々。実に酸鼻を極めている。苫前の熊公は20人の鉄砲持ちと500人の青年団とでとうとう射止めたようだ。中央の大熊(大隈)は脚は1本でこそあれ、狂暴無比で昨年以来暴れ回っているが、いまだに撃ち止めることができない……」