また、事件の反省材料として挙げるのは(1)羆の出没は多かったが人の被害がなく、安心感から対策がないがしろになってしまった(2)一部の射手が発砲して手負いにしてしまった。「獲物は猟者の独占物」という風潮があって、連携プレーによる駆除体制が築かれていなかった(3)熊の生態と習性への無知――。

 中山茂大『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(2022年)は、当時の状況を、日露戦争後の銃の民間払い下げで技術が未熟な遊猟者が増加したと指摘。「開拓民が増え、熊害が増え、にわか猟師が増え、手負い熊が増え、人食い熊が増えた」と分析している。

背後にあったもう一つの“熊事件”

 しかし、これほどの衝撃的な惨劇は「不思議なことに、それよりも古い明治初期に起こった丘珠事件の陰にかすんでしまった」と『慟哭の谷』は書く。丘珠事件とは――。読売新聞の1878(明治11)年1月31日付と2月2日付に札幌の話題の中で「この節は熊が多く出て、14~15日前には馬子(馬方)が1人かみ殺され…」という記述がある。詳細は門崎允昭『ヒグマ大全』(2020年)を見る。

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 1878年1月11日、円山(村=現札幌市中央区)と藻岩山(山鼻村=現札幌市中央区・南区)の山間にあったと推定されるヒグマの冬ごもり穴に、山鼻村在住の男が撃ちに行き、逆に襲われてかみ殺された。ヒグマは穴に戻らず、平岸村(現札幌市豊平区・南区)から月寒村(現札幌市豊平区)に向かって徘徊し始めたので、開拓使は人身の保安上、1月16~17日に計6人の猟師を「羆討獲方」として雇い入れ、警察官吏の指揮でヒグマを足跡伝いに追跡した。しかし、白石村(現札幌市白石区)から雁来村(現札幌市東区)まで追跡したところで、吹雪のため、足跡を見失ってしまった。
 

 このヒグマが同月17日深夜から18日未明にかけて丘珠村(現札幌市東区)で炭焼きの家に侵入。主人が立ち向かったが一撃で倒され、妻は乳飲み子の長男を抱いて、雇い人の女性とともに外へ逃げ出そうとした。しかし、妻と女性は背中や脇をひっかかれ、妻は子どもを手から離してしまった。ヒグマは泣き叫ぶ子どもに襲いかかり、食い始めた。妻と女性は逃れて近くの家に助けを求めた。ヒグマは近くの林の中に逃げ込んだが、「羆討獲方」の猟師が夜明けとともに探索を開始。ほどなく発見。捕殺された。

丘珠事件を2行伝えた読売

「開拓使」は明治政府が1869(明治2)年に設置した北海道の開発・行政を担った機関。これも確かに悲惨な事件だが、三毛別ほどではない。それでもこの事件が世に伝わったのは明治天皇が事件関連の遺物を観覧したからだ。『新撰北海道史 第三巻』(1990年)の「明治十四(1881)年の御巡幸」の項にはこうある。