二本木通り下町で生家が質屋を営んでいた岩本商二も、娼妓らのそんな日常を垣間見た一人である。
「うちは質屋ですから、刑事さんも任侠の人たちも、遊廓の女性も来られました。駆け込み寺ではないですが、母は“これば食べていきなっせ”と言って、いつも店の裏で彼女たちに食べ物やお酒を渡していました。質屋にものを預けるにしても、遊廓の女性たちはあまり持っていませんから、“お母さん、お金貸してちょうだい”と言ってね。そんなときは内緒で融通していたこともありました」
金光教二本木教会の堀貴雄は、逃げてきた娼妓を匿ったことがあるという。
「当時は信者さんが参られる会堂を夜中も開けていましたので、逃げた娼妓さんが忍び込んでいたんです。声をかけようとすると、人差し指を口にあてて懇願するので、そのままにしておいたのです」
妓楼に雇われた男たちが辺りを探し回る声や、折檻される娼妓らの悲鳴が聞こえることもしばしばあったらしい。
美しかった彫り物
二本木本通りの某一流妓楼に市丸という娼妓がいた。美人ではないが背が高く、客あしらいに優れた女性だった。福岡の出身で、店でもナンバーワンの娼妓だった。
二本木在住のある老婦人は、一流の娼妓の条件として自分の頭を指差しながら、「ここたい。べっぴんさんばかりが、すぐに店から抜けられたわけじゃなか」と言った。市丸は口八丁手八丁で、お客を上手にあしらった。客の好みの煙草を事前に用意し、至れり尽せりで申し分がなかったという。
上客がたくさんついたから、前借金もすぐに減った。信心深かった彼女は、毎月清祐寺に参り、茶屋で求めた餅を供えた。たくさん買いこんでは必ず同僚にも配った。その彼女が年輩の男性に気に入られて身請けされた。遊廓にいたのは7、8年ほどだった。
「身請けしたのは年輩の人でしたが、気さくな市丸さんにのぼせなったとですな」
彼女は結婚して故郷に帰り、二人の子を授かった。主婦になっても市の仕事をしていたらしい。夫は早く亡くなったが、女手ひとつで二人の子を育て上げた。
身請けされて結婚し、主婦になるというケースはそう珍しいことではなかったが、年季が明けても故郷に帰ることができず、辛島公園などの闇市で小料理屋などをする女性も多かったという。
