古老の“証言”

 ある古老は語る。

「私が見たのは戦中から戦後でしたが、遊廓の女性は明るかったですよ。貧しい一家を支えているという境遇とか、苦労話を聞かせてくれたこともありました。ビフテキを作ってくれたこともあった。“こら兵隊さんに貰ったとだいけん”と言って。貧しい時代にこんな旨いものが食えるのかというアンパンが出てきたこともありました。床入りはその後でした」

 ある90代の男性は、戦後すぐの思い出として、

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「夜は道の両側にぼんぼりのような電気が灯って、本当に華やかでした。旧制中学時代、二本木の近くに住んでいましたから、仲居さんからよく袖を引っ張られました。大人になって消防団に入りましたが、団長は妓楼の経営者でもあったので、半額でいいからと言われて登楼したことがあります。床入りは飲み食いした後でした」

写真はイメージ ©AFLO

 と語ってくれた。行為の後、娼妓はすぐに風呂場に行って、ホースみたいな管を使い、クレゾール液で女性器を洗浄した。

「すぐに洗わないと妊娠しますからね。堕胎すれば、休んだ分や治療代まで借金になります。冬でも水で洗っていました」

 坪井川沿いに、相生楼という大店(大見世)があった。二本木在住の林チサ子(仮名)の親戚は、この店に髪結いに行っていた。当時(昭和の戦中~戦後)はまだ日本髪が主流だった。弟子を2、3人連れて、1日に30人ほどを結っていた。

現在の坪井川(2026年撮影)©文藝春秋

 林が髪結いの親戚に聞いた話によれば、ちょうど相生楼で髪を結っていたとき、父親がまだ17歳の娘を遊廓に売りに来たことがあった。娘は激しく泣きじゃくっていた。

「娘さんがあまりに泣くから、楼主の人が、“すぐは商売には出さんからね。お手伝いさんとして使うからね。心配せんでよかよ”となだめられたんですよ。それで娘さんも心がなごみなさったとでしょう、ようやく泣き止んでね。うちの親戚も彼女の背中を叩いて“もう泣かんでよかよ”と励ましたようです」

 ところがその父親が、娘を売った金で松ケ枝という妓楼にすぐさま遊びに行った。

「その親戚は大変怒りましてね。何でそんなことができるもんかいな、と」

 当時、この父親のように娘を売った金で遊廓に行く者も少なくはなかった。やりきれない話だが、それもまた廓の現実だった。