歌舞伎町で取材した少女の証言
家出中の中学3年生が歌舞伎町で男から声をかけられ、クルマに乗り、千葉の郊外で殺害される。猟奇的事件をメディアは連日報道し、日本中が慄然とした。
ローティーンの非行、親子の不仲、不登校、殺人。事件発覚当初、メディアは犯人と被害者が接点をもった場所がゲームセンターだったことから、「新宿ゲームセンター殺人事件」と呼んだ。家に寄りつかず、歌舞伎町ディスコで遊ぶ少女たちを問題視し、マスコミは「歌舞伎町ディスコ殺人事件」と呼ぶようになった。
不良少女をひきつける魔都として、歌舞伎町に取材陣が押し寄せた。事件当時、この街にはデイスコが20件近く営業していた。事件の発端となった「ワン・プラス・ワン」「カンタベリーハウス」「ブラックシープ」「アップルハウス」「カーニバルハウス」「ビッグトゥゲザー」……。
1975年に大学に入った私は歌舞伎町ディスコに馴染みがあり、卒業してからも取材も兼ねて80 年代前半はよく通ったものだった。
ディスコで遊んでいた16歳の少女と知り合い、流行事情を取材していたら、たまたま殺された14歳の女子と遊び仲間で、殺害される前日も一緒に遊んでいたというではないか。
「カブキで初めて見かける子だったんだけど、無視するから喧嘩になったんです。でも話してみるとすごいいい子だから仲良くなった。家出中だって聞いてたけど、ゲームセンターが好きでよく行ってて、そこで声かけてくる男の子ってすごい多いから、つい油断してついてっちゃったんだろうなあ。まさか殺されるなんて、わたしだって思わないもん」
証言した少女は杉並区で親兄弟と暮らしていたが、自宅にほとんど帰らず、歌舞伎町で過ごしていた。不良少女のあいだでこの地を称するのに「カブキ」と言っていたのが今も印象に残っている。
私に話を聞かせてくれた少女は、高校中退で、歌舞伎町を根城にしていた。
「今つきあっているのは少年ヤクザです」
1982年当時、胸のまん中に組の代紋を彫り、群をなして練り歩く十代のヤクザがいた。大人のヤクザで代紋や親分の名前を彫る者は少ない。人間関係が未来永劫、変わらないと思うのは若いうちだけであって、いついかなるときに人間関係が変わるかもしれないことを知っている大人は、おいそれと代紋や親分の名前は彫らないのだ。それを堂々と彫ってしまうところが、少年らしかった。