いくつもの軍需工場が進出

 こうして開業した狛江駅をきっかけに、少しずつ市街地が開けてゆく。ただ、本質的には農村であったことは変わらない。古い空中写真を見ると、戦後も昭和40年頃まではそうした風景が広がっている。

 

 ただ、そうした中でも昭和初期には狛江通り沿いなどを中心に、いくつか工場が進出している。東京航空計器に代表されるように、軍需工場の性質が強いものが多かったようだ。

 工場ができればそこで働く人もいる。さらに戦後、工場跡地や町外れの多摩川沿い田園地帯などに、都営住宅や大型団地などが建設される。昭和40年代には相次ぐ洪水に対処すべく、町中を流れて六郷用水と合流していた野川の付け替えも行われた。

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 野川の跡は、一部が緑地公園として整備され、他は住宅地の中に消えている。

 

調布派と世田谷派に分かれた過去

 こうして着々と都市化が進んでいった狛江には、隣接する調布市や世田谷区との合併の話が絶えなかったという。

 ホンネを言えば、市よりは区のほうが気持ちがいい。だから調布市ではなく世田谷区。が、東京都としては区部を拡大する意向ナシ。市民は調布派と世田谷派に分かれて云々、などという話も残っている。

 が、結局狛江はどちらとも合併せず、1970年に狛江町から狛江市に昇格した。当時の人口は5万人台で、それからもどんどん増えて1985年には7万人を突破。この年には、市内最後の田んぼも姿を消した。

 

 どことも合併せずに単独で市になったのが良かったのかどうなのか。それを決めることができるのは、筆者のような部外者ではなく市民だけである。

 1995年には、狛江駅がそれまでの地上駅から高架駅になった。あわせて学校があった駅の北側も再開発。そうしていまのバス乗り場のある北口駅前広場が生まれた。