ミラノ・コルティナ冬季五輪でも大活躍だった日本人選手たち。これまでの冬季五輪でも、多くの“レジェンド選手”が存在した。

 コメも買えないほど貧乏だった幼少時代。挫折続きの人生、でも決して負けなかったというレジェンド・葛西紀明選手(53)。7大会連続五輪で銀メダルを獲得した、ソチ冬季五輪当時の手記をあらためて公開します。(全2回の1回目/後編に続く)

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「母さん、やっとメダルを獲れたよ」

 貧乏と闘いながら必死で働いて僕たちを育て、ジャンプまでやらせてくれた母には、いくら感謝しても足りません。ここまで思った以上に長い、長い時間がかかりましたが、ようやく母に恩返しできたのかなと思います。

 五輪には7回出ましたが、僕のジャンプ人生は決して順風満帆ではありませんでした。辛いことのほうがたくさんあった。でも、それも僕の運命だと思って生きてきました。だけど、いつか必ず良いことがある――そう信じて生きていたのです。

葛西紀明選手(2018年平昌五輪) ©︎JMPA

コメも買えず、電話も引けず…

 僕がジャンプを始めたのは、小学3年生の頃です。下川町は昔からジャンプが盛んで、友達に誘われてやってみたのです。その頃から負けず嫌いな性格で、友達より飛んでやろうと思ったら、いきなり抜いてしまった。すぐに地元の「ジャンプ少年団」のコーチが家まで来て、息子さんにジャンプをやらせないかと誘ってくれました。

 だけど、ジャンプという競技はすごくお金がかかります。スキー板に10万円、ワンピース(ジャンプスーツ)も7~8万円、さらに靴やヘルメットまで揃えると、相当な額になる。最初は親にダメだと言われ、泣く泣く諦めたんです。それでも、親の目を盗んでは飛んでいました。ある日、町民スキー大会に黙って出場したら一位になった。もらった金メダルを手に、どうしてもやりたいと泣いて頼んだら、やっと首を縦に振ってくれたんです。必要な用具は全部、2年先輩にあたる岡部(孝信)さんのお下がりを使わせてもらうことになりました。

 というのも、我が家はコメも買えないくらい貧乏だったんです。電話も引けなかったので、クラスで連絡網を回す時は、同級生がわざわざ走って用件を伝えに来てくれました。風呂は薪ストーブで焚いていて、真冬はマイナス30度まで冷え込む中、物置まで薪を取りに行った。スーパーにはいつもつけ払いで、借金だらけ。これは母が亡くなった後に知ったことですが、家賃も何十万円と滞納していたようです。

 親父はろくに仕事もせず、朝から酒を飲んでは麻雀にのめり込んでいました。そんな親父のことは大嫌いでしたし、絶対こんな親にはならないと決めていました。でも、野球やマラソン、いろんなスポーツの魅力を僕に教え、ジャンプ台の整備にも毎日のように顔を出してくれていた。今となれば、感謝している部分もあります。