その1カ月後、チェコスロバキア(当時)でフライング世界選手権といって、巨大なジャンプ台で争う試合がありました。恐怖感もありましたが、182メートルもの飛距離を出し、W杯で初めて優勝することができた。優勝が決まった瞬間、すぐに母に電話をしたのを覚えています。ところが、旧共産国からだったせいか、電話はなかなかつながらない。何回もかけてようやく優勝の報告ができた。母は泣いて喜んでいましたね。

葛西紀明選手(2018年平昌五輪) ©︎JMPA

難病を患った妹のために

 僕にとって、自分のことを支えてくれる家族の存在ほど大きなものはありません。シーズン中は世界の国々を転戦していますが、いつも家族のことを考えています。

 2年後に行なわれたリレハンメル五輪(1994年)は、妹のために金メダルを獲りたいと強く思って臨んだ五輪でした。実はリレハンメルの前の年に、当時16歳だった妹は再生不良性貧血という難病にかかったんです。

文藝春秋

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告白手記 母の焼死と長野五輪の怨念を越えて
次の記事に続く レジェンド葛西紀明の“波瀾万丈”…実家が放火→母は全身火傷で亡くなり、難病の妹は「死にたい」と…五輪連続出場を支えたモノ