「金メダルを獲って、家を建てる」
親父が仕事をしない分、朝から晩まで小料理屋や旅館で働き、姉、僕、妹の三人を育ててくれたのが母でした。それでも、子どもの前で愚痴をこぼすことは一切なかった。僕が小さい頃、そんな母がよく作ってくれたのが、芋をつぶして小麦粉を混ぜ、団子状にした芋餅。食べ盛りの少年にとってはご馳走で、今でもよく覚えています。
もちろん、子供心に「なんでうちはこんなに貧乏なのかな……」と思うこともありました。友達は任天堂のゲーム&ウオッチやファミコンを持っているのに、そういうものは全部我慢しないといけなかった。でも、こんな家を出て行きたいと思ったことは一度もありませんでした。いつか五輪で金メダルを獲って、家を建ててあげる――母にはそう約束していたんです。
そのためにも絶対に強くならなければいけない。転機になったのは、中学3年生で、大倉山の大会でテストジャンパーを務めた時です。優勝した選手よりも遠くへ飛べた。新聞には「陰の優勝者」と報じられ、それまでは遠い夢だった金メダルを、現実の目標として初めて意識できました。
19歳、初五輪での“葛藤”
初めての五輪は、19歳の時に出場したアルベールビル五輪(1992年)です。大舞台を前に気合が入っていたのですが、五輪の1カ月前になって、全日本のスキー部長からフォームを変えるよう指示されたんです。
それまで僕はずっとスキー板を並行に揃えるクラシック・スタイルにこだわっていました。ところが、80年代半ばにスキーの先端をV字に開く「V字ジャンプ」が登場した。飛距離が伸びるということで、ジャンプ界でも主流になりつつあり、代表の選考基準にも「V字転向」が盛り込まれました。スキー部長に「V字に変えないと五輪に連れて行かない」と言われ、最後はV字に変えるしかなかった。
2週間やっても思うように飛べず、3週間目に大倉山のジャンプ台で、パッと板を開いたら次元の違うジャンプを飛ぶことができた。それで、ようやくV字に変える決心がついたのです。
ところが、肝心の本番では緊張のあまり、上手くV字に開けなかった。結局、何が何だか分からないまま初めての五輪は終わってしまいました。



