高校中退、フリーター生活を経て、38歳で東京大学医学部(理III)に合格。現在、依存症治療の第一線で活躍する精神科医・西村光太郎氏(58歳)は、自他ともに認める“異端”の経歴の持ち主だ。

 そんな彼の人格形成に大きな影を落としたのは、裏社会で暗躍した“事件屋”の父、西村嘉一郎の存在。「同じことをやれと言われたら絶対に真似できない」父は一体どのような人物だったのか。まるで映画のような、ヤクザまがいの父に翻弄された幼少期からの軌跡を振り返る。

精神科医の西村光太郎氏

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浮き沈みが激しすぎた家庭環境

――早速ですが、お父様にまつわる思い出は結構バイオレンスだとか。

西村 はい、時代も関係するかもしれません。小学校のとき、父が事業で作った借金が原因で、家に借金取りが来たんです。玄関先にあったタヌキの置物を「おらぁ!」とか言って破壊して帰っていくんですよ。

――お父様はどのような事業をされていたんでしょうか。

西村 いわゆる“事件屋”を生業にしていました。他人の紛争をいろんな方法で「解決」する裏稼業ですね。

――高収入だから裏稼業に足を踏み入れるのかと想像するのですが、借金を作られていたということは、暮らし向きはあまり豊かではなかった……?

西村 これが難しいんですよ。簡単に言えば、非常にアップダウンが激しかったです。小学校1年生までは大阪の岸和田で過ごしたのですが、そのときに住んでいた家はとても良い家だったと記憶しています。広い庭に犬を飼っており、父は運転手付きの車に乗っていましたね。ただ、小1の終業式、12月24日に、母から「和歌山に行くよ」と言われて、母の実家に突然引っ越しをしたんです。いま振り返ると、父が事業関係で何かしでかしたことが原因でした。いきなりだったから友人達に別れを言うこともできませんでしたね。

――和歌山での暮らしはどうでしたか。

西村 暮らしたのは、三軒長屋(1階建ての家が3つ繋がっている建物)です。台所と6畳の部屋が1つ。そんな家に、母と兄、妹、私の4人で暮らしていました。当時は電話線も引いてなくて、何かあれば500メートルくらい先の親戚の家で電話を借りていました。ただ、不思議と自分が貧乏だと感じることはなかったですね。和歌山で新しくできた友人も、「母親が蒸発した」とか重い事情を抱えていて、暮らし向きもよくなかったからかもしれません。

 そのタイミングで父と母は離婚しました。 後に知ったのですがこの頃は生活保護を受給して、なんとか生活していたそうです。