伊藤はこうしたメリットも存分に生かしながらジャンプを武器に、国際舞台で頭角を現していく。その活躍は、芸術面に重きが置かれていた採点基準にも変更を迫ることになった。
「5種類の3回転ジャンプを成功させたのに負けたのはおかしい」
1983~84年シーズンにシニア初参戦した伊藤は、オランダでのエニア・チャレンジカップで当時全盛だったカタリナ・ヴィット(東ドイツ)に次ぎ2位と健闘した。だが、この試合後のジャッジ(審判)らによるミーティングでは、「伊藤はアクセルを除く5種類の3回転ジャンプを成功させたのに、2種類しか跳んでいないヴィットに負けたのはおかしい」として激しい議論が繰り広げられたという。そこでは若いジャッジたちの多くが「フィギュアスケートもスポーツならば技術をしっかり評価して採点すべきだ」と主張し、芸術点が幅を利かせていたルール・採点基準がのちに改正される布石となった。
その翌シーズン、1985年1月の全日本選手権で伊藤は前年の雪辱を果たして初優勝した。だが、中学卒業を控えた同年3月の東京での世界選手権は、試合直前に右足首の骨折がわかり、棄権を余儀なくされる。
体重の3~5倍の力が片足に
もともと伊藤は偏食で、かつてはハンバーグ以外は肉も一切食べられなかったのが、山田コーチの家で食事を少しずつ改善するうちに体重も増え、中学時代にはむしろ減量が課題となっていた。このときの骨折の原因も第一は体重の増加であり、さらにそこへ中学3年生から挑戦を始めたトリプルアクセルなどによる筋肉疲労が加わった。トリプルアクセルは着氷の瞬間に体重の3~5倍の力が片足にかかるといわれ、体重45キロだった彼女は最大225キロもの重力を片足で受け止めていたことになる。
減量に苦心するとともに、中学・高校時代は遊びたい盛りとあって、《毎日なんで練習しなけりゃいけないんだろうとか。やだなやだな、また今日も練習行くの? って思いながらやってました》と後年打ち明けている(『Number』2001年2月8日号)。
それでもカルガリー五輪が開催される1987~88年シーズンには、体力的にも精神的にも大きな上昇期に入っており、サラエボ大会のとき以上にオリンピックに出たいという気持ちが強かったという。それゆえ代表を決める全日本選手権ではそれまでにない緊張感のもと、とにかくミスをしないよう心がけて優勝し、初めて五輪への切符をつかんだ。


